傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

欲望の形式

「肉を食べませんか」というメールが入ったので出かけた。彼はふだん、食べものに関心がない。ごはんはどうしているんですかと訊くと、文字通り米飯の意味にとったらしく、ごはんはサトウさんに炊いてもらいます、と答えた。たまに食べますよ、ごはんはいいですね。

彼は外食産業をあまり利用しない。自炊もしない。摂取している食物を尋ねると、昼の社食が主な栄養源で、あとはスーパーマーケットで買った無個性なパン、少しの米(サトウさんが炊いたもの)、少しの総菜、それにチーズとバナナで生きているらしかった。誰かがおもしろがって成人男性の基礎代謝と比べると、彼はその三分の二しか摂取していなかった。
彼はたしかに華奢だけれど、女にしては長身の私よりもなお少し背丈があり、いくらなんでもその摂取カロリーで足りるはずはないのだった。だから彼はねじで動いているんじゃないかと言われていた。たしかに彼には、毎朝大きなねじを背中にさして回すのが似合う。
彼はそんなふうだけれども、時折唐突に「肉が食べたいのです」と言う。そうすると私は、彼の指定の店に出かけてゆく。彼は食べたくなるときにはどんな肉をどのように食べたいかまで明確に感じるらしく、そのたびごとに違う店を指定する。そこで彼は淡々と、成人男性一人前ぶんの肉を消費する。
なぜでしょうと訊くと彼は、それが僕にとって自然なんです、と言う。
みんな、始終いろんなものを食べるのが当たり前だと思っています。みんなにとってはそれが自然なんでしょう。それと同じように、僕にとってはふだんああいう食生活で、ときどき肉を食べるのが自然なんです。
彼は少し思案して続ける。
自分と形式の異なる欲望は存在しないと思う人が多いみたいで、少し困ります。僕にだって食欲はある。みんなのそれとかたちが違うだけです。ほかのことにしても同じで、僕は恋愛や結婚をしないので、女性にまったく興味がないんだろうと言われます。どうしてかなと思う。僕は男も女も同じようにとらえているのではないし、男性のほうがより好きなわけでもない。僕には僕なりの異性への欲望があるんです。ただそこに独占欲や接触の欲求がほとんど含まれていないだけです。
そうですよねと私は言う。彼には好きな女性のタイプがあり、お気に入りの芸能人がいる(彼と同世代の、ごく短い髪が似合うファッションモデル)。最近は同じ会社の女性とよく出かけていて、それがとても楽しいのだと聞いている。
彼女が彼のことをちゃんと理解してくれるといいなと、私は思う。そう言うと彼はひっそりと笑い、ごく小さい声で話す。
それは無理だと思いますよ。僕の形式はこんなにもみんなと違うのに、それを理解しろと要求するのは無茶です。彼女がいわゆる恋愛らしいことを期待しているのなら、もうそれでおしまいが決まったようなものです。伊達に三十何年生きてきたんじゃありませんよ、そういうことは何度かありました。
私はレアに焼けた肉をもぐもぐ食べながら、話してみればいいのに、と思う。彼女に無茶な欲望をぶつけてみたらいいのに。だって、「自分を理解してほしい」なんて、形式が個性的な彼だけじゃなく、誰にとっても無茶な欲望なので、だから理解されにくい彼にこそ、私はそうしてほしい。今までの人生で理解されないことがあまりに多くて疲れちゃったんだろうけど、でも彼が彼女に理解を求めて会話をはじめてくれたら、私はどんなにか勇気が出ることだろう。