あの子みたいな、なんていうか作ってるの、俺、ダメだな。近くの席から男の声が聞こえた。だいぶ大きい声で、そうでなければ言葉遣いの端々まで聞き取ることはできない程度の距離が空いていた。声は断続的に高まりながらしばらく続いた。可愛らしさを取り繕っている女性について話しつづけているようだった。サメル、ナエル、というような音声が、何度か挟まれた。私と彼女は目を見交わし、彼女の夫は声のするほうをちらりと振りかえって、口の端を上げた。中年になってもこの夫婦の容貌の優れていることに変わりはなく、いけすかなさには拍車がかかったと私は思う。高慢で口さがなく姿勢が良く、いつも磨かれた靴を履き、生活は意外と地味で規則正しい。
このいけすかない夫妻がいけすかない若い男といけすかない若い女であったころを私は知っている。そのころの彼らには虚勢の気配があり、緊張感があった。他人をこきおろすからには自らの品質を保たなければならないと信じているかのようなある種の律儀さを、彼らは感じさせた。私は彼らの後輩で、彼らは私を「おもしろい子」としてペットみたいに連れて歩いた。彼らは大人びた学生で、私は制服を着なくなったばかりの子どもだった。今となっては三歳の年齢差なんてあってないようなものだと思うけれども。
彼女はゆったりと笑う。テーブルをともにした夫と友人がことばを交わす前に自分と感覚をともにしていることにおそらくは満足している。彼女はちいさい声を出す。作ってるのがだめなら何がいいんでしょうね、作りこみが足りないんだろうけど、そんなの若いうちはお愛想のうちでしょうに。ナチュラルメイクは真のナチュラルじゃないって知らなくてもいいのは中学生までだと思うなあ。
まあまあと彼女の夫が言う。あの青年は、この世には取り繕わない愛らしさがあり、作りこむよりも美しい素顔があり、それが自分に与えられるべきだと信じているんだよ。すべての女性のナチュラルメイクをナチュラルだなんて思っていなくって、特別な女性のナチュラルが美しいはずだと思っているわけだね。そのために作為の見える女性に対して意欲をうしなっているというから、まあいいじゃないか。その女性の安全が確保されるのだし、作為を上手に隠せるほど洗練された人であれば無神経に人を査定してでかい声で得意げにしゃべるような手合いには近づかないだろう。
彼はもう一度はっきりとその男のほうを振りかえった。目を合わせたのだろうと私は思う。声の大きさをとがめるしぐさとしてはマナーに反していない。けれども私はその男を気の毒に思った。彼は昔からつきあいもないような相手を品定めする人間をほとんど病的に嫌っていて、もしもそれが今でも維持されているとしたら、悪意が伝わらないはずがないからだ。
ねえサヤカちゃんと彼は昔いった。あいつらは自分の欲望の対象にされるのが相手にとっていいことだと思っている、いや、思ってすらいない、それを前提に他人を品定めしている、あいつらは、自分の欲望を汚いものだと思ったことがない、自分はいつも値札をつける側だと思っている、札束みたいなものを持っている側だと思いこんでいる、僕はそれががまんならないんだ、だから聞こえるように言うんだ、きったねえ顔してるなって。言ってもいいだろう、僕は、顔だけはいいんだから。いいよと私は言った。いくらでも言うといいよ、だいじょうぶだよ。
視線は人を客体として壁に留めるピンであり、美しくあることはだから、モノとして見られる暴力にさらされることでもある、おそらく。そのような空想を私はして、彼と彼女の美しさよりもそれによるあやうさを愛好していたのだけれども、若かりし日の彼にはもうひとつ、許せないものがあった。彼は男なので、彼女の何分の一かしか、モノのようには見られなかった。そうして彼は男なので、臆面もなく自らを「選ぶ立場」「査定する立場」に置く人間の多くが同性だということに気づいた。彼は自分が女たちをながめまわす視線に、自分が大嫌いな連中と同じにおいをかぎつけた。彼は無神経な男たちを憎み、自分の中の彼らに似た部分を憎んだ。それは彼が若くやわらかな心をしていたから生じた感情だと私は思っていたけれど、鬢にいくらか白髪が見えるようになってなお、彼はそれに苛烈な憎しみを抱いているように見えた。私はなんだかかなしくって、それから少し安心して、彼の妻を見た。彼女は笑って夫を見つめ、実に高慢ちきな口調で、ねえあの男、不細工だったわねえ、と言った。