傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

2012-01-01から1年間の記事一覧

彼の邪悪な優越

彼はふと彼女に手を伸ばした。彼女はすぐには動かなかった。だから彼はしばらくそうした。十数秒の後に彼女はベルトコンベアに載せられた作りかけの製品みたいに円滑に彼とのあいだに距離を置いた。彼も彼女もそれぞれに狼狽をそのまま表出する習慣を持つほ…

たちの悪い鏡

打ちあわせから戻ったら七尾が彼のデスクの前に立っていたので彼の腹の底に小さな吐き気の種が生まれた。それから七尾の指がデスクの天板に触れているのを見て取った。種が浮上する。七尾はさりげなく背後の自分のデスクに戻る。何か、と不自然なほど遠くか…

悪いお菓子

入社時期が近い十人ばかりと飲んでいて最近どうよと訊かれたのでふつうと彼はこたえる。そっちはと返すとがんばってるようとマキノはこたえてビールをごくごく飲んでいる。両手でジョッキを持って慎重に飲んだりしない。二の腕が太いと彼は思う。二の腕が太…

彼が私を憎んでいたころ

給食のときは机を向かい合わせに移動させる。席順は成績の順で、だから彼の周囲は首位グループだった。ずいぶんと露骨なシステムで、でも十四歳の彼がそれを気にしたことはなかった。マキノ私立はどこ受けんの。彼の隣の高木が言う。高木は誰とでも話す。女…

大人に必要な想像

姉ちゃん俺あれかも、がんとかかも。とかってなによと彼女が尋ねると弟はあっけらかんと、なんか疑いがあるから詳しく検査するんだってさあ、と言う。会社のさ健康診断あるじゃん、毎年受けないと怒られるやつ、あれなんか意味あんのかなって思ってたんだけ…

あなたが犬なら憎まない

頭の中で架空の指を折ると今日で四度目だった。三度目からはポーチがついていると彼は思う。ポーチというのは腰巾着が転じて陰で一部の社員が使う呼び名で、縮めてポチともいう。腰巾着はなにについているかといえば彼らの会社の専務についている。彼はもう…

儀式を無効にする方途

よんどころない理由で、あるいはあまりに複合的な問題を抱えていてひとつずつ解決しようと思うと気が遠くなるというような理由で、彼らは離別に合意した。彼らはともに五年を過ごし、五年かけて互いを新鮮に感じることがなくなり、また五年分の若さをうしな…

インスタントな正義

でも今まで問題はなかったんですよね、と伊元さんは言った。伊元さんはプリンタの前にいて、ふだん私の背後に座っている先輩と、それから修理に来た人がそこにいた。先輩がこたえた。プリンタのIPアドレスが浮動で取得されていると業者さんはおっしゃいまし…

水曜日の魚の話を

水曜日は焼き魚のにおいがする。彼女はそう言い、そうなの、と私は返す。彼女はうなずく。今の職場は小さい雑居ビルの中にあって、隣が民家で、夕方になるとときどき晩ごはんの匂いがするの。それでね、今日は焼き魚だなあって思って、しばらくそう思ってて…

助けあって生きていこうよ

つきあいはいいほうだと彼は思う。なぜかといえばつきあいがいいほうが結局あんまりめんどくさくないからだ。送別会の主賓の片方が産休だと彼は知らなかった。辞めるにせよ産休育休のあとのほうが得なのかもしれないと思った。彼は家庭を持ってもおかしくは…

愛に殉じたそのあとに

里佳子さんがふたつ年上の夫と結婚して三年になる。子どもができたので退職するという。おめでたい話だ。けれど里佳子さんに限っては少なからぬ数の社員が個人的にざわついており、不審がった後輩が私のところに理由を尋ねに来るほどなのだった。彼は訊いた…

ひっくり返って腹を見せてよ

僕は犬になることにしたよと彼は言った。そうかいと私はこたえた。犬はいやなんじゃなかったの。いやだよと彼は言う。いやだけどしかたない。そうしないと、彼女はこっちを見てくれないからね。 彼は半年前から取引先の女性にひどく心を惹かれて、いろいろと…

鈴木さんがいればいいのに

槙野さんおでん食べない、と彼は言った。食べますと即答すると、彼は彼の同世代の部下にあたる社員の名前を挙げ、少し相談したいと言った。彼は目の高さでてのひらを斜めにしてそれを降ろすしぐさをしてみせながら、林原さんって、ほら、こういうところある…

短時間の小規模な孤独

舐められたもんですねと同僚が言い、やっぱりそうですよね、と私はこたえる。彼は私を見て目頭に薄い皺を寄せ、いただきますと手を合わせてから味噌汁に箸を添えてひとくち飲みこみ、焼いた鯖の焦げた皮のふくらみをぱりんと割って、槙野さんって怒らないの…

だいなし病のためのセーブ・ポイント

携帯電話の文字列を見て、では会いましょうと私は書き送る。私はもうすぐ今日の仕事が終わるので、私と似たところのある若い後輩とちょっと飲もうと思います、いかがですか。少しの沈黙のあと思慮深い返信が返ってくる。いいですね。私は彼女のいる(そして…

幸福な猿と親切な猿回し

うちのポールはだめだ、なんの意外性もない。彼女がそんなふうにこぼすので私は笑う。ポールは彼女の新しい同僚で、彼女の会社が外資系の会社と吸収にかぎりなく近い合併をしたのでやってきた社員のひとりだ。ポールはアフリカ系アメリカ人で、彼女の隣の席…

彼らのアイスランドの城

彼とは久しぶりだったので、どうしてたと訊いた。稼いでたと彼はこたえた。相変わらずだねと私は言った。相変わらずじゃないと彼は言った。常に右肩上がり。じゃんじゃん稼いでる。 彼は彼自身の自己紹介を借りれば「稼ぐほうの弁護士」で、稼がないほうとい…

できませんと彼は言う

彼は大勢が参加しすぎてかえって数人としか話せない新年会の会場の、ずいぶんと隅のほうにいた。私はその向かいに座り、潰れる直前って嘘ですよねと訊く。ほんとうですよと彼はこたえる。週に四日は八時間眠って土日もどちらかは休んでます、でもそんなのと…

空を飛んで助けに来てね

Skypeに応答するとなんで映像切ってるのと彼女は言う。部屋中に洗濯物を干してるからだよと私はこたえる。それに電話っぽいほうが違和感がないっていうか、映像までついてると、過剰な気がする、恋をして頭がおかしくなってるときにその相手を見る、くらいの…

ICチップが傷つくように

彼は眼球だけでさっと左右を見渡し、これは秘密なんだけど、と言う。僕はほとんど文無しなんだ。今。現金に関してだけ。私は目を丸くし、彼の真似をしてそれを動かし、私のおばあさんの七十八のときの口調で、まあ、と言ってみせる。彼は笑う。私たちはおそ…

彼の殺された恋人

玲子さんはお元気と訊くと彼は意図して視線を固定している人の顔になり、元気だったよとこたえた。元気だったよ、先週はね。私は彼を見る。それから質問を重ねる。別れたの。彼はたのしそうに笑って、いいね、と言う。サヤカはどうしてそんなに話が早いのか…

どうか忘れていますように

帰省は今日までだと彼女が言うので、見送りがてら少し飲むことにした。彼女の両親と兄はずっと東京に住んでいる。彼女は進学のために名古屋に出て、そのまま就職して結婚した。小規模な町のようでもある駅の敷地の中の小さい店で飲んだり食べたり話したりし…