傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

彼の殺された恋人

 玲子さんはお元気と訊くと彼は意図して視線を固定している人の顔になり、元気だったよとこたえた。元気だったよ、先週はね。私は彼を見る。それから質問を重ねる。別れたの。彼はたのしそうに笑って、いいね、と言う。サヤカはどうしてそんなに話が早いのかな、早いということばにいちばん似合わない愚鈍な人なのに。
 彼の恋人は玲子さんといって、もう七年一緒にいるのだった。違う。いたのだった。私が玲子さんに会ったのは三度きりだ。薄い眉の、瓜実顔の、こめかみに流れる奥二重を短い睫毛でびっしり縁どったきれいな人で、髪をいつもお河童にしていた。小さい爪は顔と同じかたちをしていた。根元の白い三日月の透けて見える桜色のエナメルをつけて、彼のそばにいた。
 彼は私の古い友人で、会ったことのない彼の親族よりも玲子さんはずっと、彼の家族だった。私にはそうだった。彼らは同じ会社に勤めていた。好きな人ができましたと玲子さんは彼に言ったのだそうだ。恋人は簡単だよと彼は言った。さよならと言って会わなければそれだけで消えてしまう。安藤玲子がこんなにもたしかにこの世にいても、そんなことに関係なく、僕の恋人は消えてなくなってしまう。
 玲子さんが好きになった人はほんとうになんでもないそこいらの男の人で、彼らと同じ会社にいて、彼は顔を知っているか知らないかという、その程度の間柄だった。彼らの会社はそれなりに大きいのだ。玲子さんはその男と半年暮らした。そうして焦点の合わない目をして彼の部屋に来た。だめになったと彼女は言った。だから彼らはまた以前と同じだけ一緒にいるようになった。結局のところ彼らはそのほかにできることがなかった。
 けれども玲子さんが好きになったもう一人の男はそうではなかった。その男は玲子さんを少しもあきらめていなかった。だから彼に対してありとあらゆることをした。ありとあらゆる、と私は繰りかえした。彼はまた少したのしそうに笑い、同僚としてできるかぎりのことをした、と言った。そんなわけで僕はすっかり「あの女性問題の人」になった。ジョセイモンダイということばが可笑しくて私はひどく笑った。もしもこの世に男性問題というのがあるのなら、私はそれを解いてみたいと思った。
 彼はそれを玲子さんに話した。彼らはそのようになんでも話していた。でも彼らは半年前の彼らではなかった。そんなことはよくわかっていたと彼は言った。玲子はだめになったと言った。そのとおりだった。僕はそれなりにおもしろおかしくその話ができたと思うよ、でも玲子は目を吊り上げて怒鳴った。私のせいだっていうの。
 玲子さん、怒鳴るんだ、と私は言った。彼はうなずいた。怒鳴るみたいだね、僕も知らなかった。いやな声だったよ。気持ち悪かった。だから別れたのと訊くと彼はもう一度、今度はいちばん小さいサイズで笑った。
 玲子さんはいろいろなことばで彼をなじった。彼はいつも冷たく、浮気者で、人を利用することしか考えていない人間だと言うのだった。彼は玲子さんの体力が尽きるまでそれにつきあった。玲子さんは静かになってすぐに玄関に向かった。さようならと彼は言った。
 そんなわけでむりやり有給を取って一週間ばかり波照間でぼんやりしてたんだと彼は言った。いいなあいいなあと私は派手な声を上げた。あんななんにもないところに一週間とか最高じゃん。最高だったよと彼は言った。なにしろメールが三十件も来た。私はからだが冷えるのを感じた。どうして、玲子さん。
 僕は玲子じゃないと彼は言う。玲子によると僕は玲子とつきあってたときからもう一人女がいて、そいつと沖縄に行ったんだってさ。いい話だと思わない。下劣な妄想だよと私は諭した。気持ち悪い、卑しい妄想だよ、そんなのを三十回もぶつけられるのはひどい経験だよ。慰めてほしいんじゃないと彼は言った。玲子はどうしてそんなことをしたんだと思う。
 そんなのあなたみたいに愛情深くて忍耐強くて強靭だった人にわかるはずないでしょうと私は言う。あなたはほかのところではそうじゃなかったかもしれない、でも玲子さんに対してはそうだった。でも玲子さんは浮気してより戻して責められもしないで、しかも相手のろくでもない男があなたの将来を傷つけかねない真似をして、そんなのあなたを憎むよりほかにないじゃないか。あなたがひどい人で玲子さんはその被害者でいられるまぼろしの世界に逃げていくほかに。
 頭ではわかってたよと彼は言った。僕の恋人は罪悪感に殺されたんだろう。今日はそれを確かめに来たんだ。ありがとう。