里佳子さんがふたつ年上の夫と結婚して三年になる。子どもができたので退職するという。おめでたい話だ。けれど里佳子さんに限っては少なからぬ数の社員が個人的にざわついており、不審がった後輩が私のところに理由を尋ねに来るほどなのだった。彼は訊いた。なんで家庭に入るとまずいみたいな感じなんですか。あの人旦那さんラブだし別によくないですか。そうとも里佳子さんは旦那さんラブだよと私はこたえた。だから私たちはどうしたらいいかわからない。
最初に里佳子さんとその夫の問題に気づいたのは、自分の結婚式の二次会に彼らを招待した社員だった。里佳子さんたちはまだ新婚だった。ふたりのそばを通ったときに聞こえたせりふに彼女はひやりとした。これだから頭の悪い女はいやなんだ。
あとは里佳子さん本人から、少しずつ聞き出した。里佳子さんは愚痴を言わない。ただ彼女が当たり前だと思っている話が、当たり前でない内容をふくんでいる。里佳子さんの夫の口癖は「誰のおかげでメシ食ってると思ってるんだ」で、里佳子さんの稼ぎは家計に入れないというのだった。じゃあ貯金してるのと訊くと、うん私が貯金してる、と里佳子さんはこたえた。私は少し混乱した。里佳子さんはゆっくりとことばを選んで説明した。私が勝手に働いて勝手に貯金してる。
そのとき私たちは女性社員ばかりでお昼を食べていた。全員がしんとした。考えあぐねていた、とあとでひとりが言った。一瞬、理解できなかった、収入を得させないんじゃなくて、無視するってことが。だってお金はあったほうがいい、ほんとに屑みたいな男ならそれを搾取してなお相手を踏みつける。
里佳子さんの夫はそうではないのだった。里佳子さんは家事をすべてこなし、必ず夫より先に帰っていた。それがうまくいっているうちは里佳子さんが働いていることは夫にとって「どうでもいい」し、「ないものとして扱う」対象のようだった。だから自分の仕事に関するあらゆることを、里佳子さんは口にせずに生活していた。どんな些末なことも、あるいはそれを前提としたことも。話すとあの人のご機嫌が悪くなるからと、そう言って里佳子さんは笑った。あの人、子どもができて私が退職するのを待ってるのよ、きっと。
私たちは愕然とした。結婚しているひとりが、それがいかに不当なことかをまくしたてると、里佳子さんは少し困ったように首をかしげ、女たちを順に見て、私に目を止めた。ねえ、槙野さん。なあにと私はこたえたくなかった。里佳子さんはこれから絶対に反論できないことを言うにちがいないと、どうしてか思った。
里佳子さんは尋ねた。槙野さんの彼氏、今いなかったら元彼でもいいけど、その人より格好良い人ってうちの会社にいる?そんなのいっぱいいるよと、しかたなく私はこたえた。じゃあもっと正しい考え方をする人は、と里佳子さんは尋ね、それもいるでしょうね、と私はこたえる。もっとやさしい人も、もっと頭のいい人も、もっと収入がある人も。里佳子さんは続け、私は頷きつづけた。たとえそんな人はいないと言っても、それじゃあ彼がやさしいから(あるいは頭がいいから)好きだったのと、里佳子さんは尋ねるはずだった。そして私はそれにノーとこたえるしかないのだ。だって私は誰かと比べてすぐれているからその人を好きになったのではない。
恋は部分にするものではないと私は思っていた。そのくせ私は自分が里佳子さんの夫のような人間を絶対に好きにならないと確信していた。里佳子さんはその矛盾をあぶり出すために私に質問を重ねたのだ。ねえ槙野さん、人を好きになったら、その人のだめなところもぜんぶ好きよね、そしてその人との関係を続けるために、努力をするわよね。
一連の話を聞いて彼は拳でデスクを叩いてみせた。だめだめ。私は回想から醒め、なにが、と尋ねる。槙野さんがだめっす、と彼は言った。いいですか、里佳子さんのラブは強いかもしれないけど間違ってます。ちょう間違ってる。そういう人間に他人がすべきことはただひとつ、俺はそういうの、嫌いだね、という態度を貫くことです。あんたの旦那は最低だって言ってやることです。そして旦那が嫌になったら連絡しなよって、嫌にならなくってもときどきは連絡しなって、そう言うことです。里佳子さんが愛に殉じるのは里佳子さんの勝手です、でも子どものために逃げることもあるかもしれないでしょう、そしたら他人にできることは、里佳子さんが家庭に疑問を持ったとき、外の世界の窓口になること、簡単にアクセスできる窓口であることです、それってすごく大事なことだと、俺は思います。