傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

ひっくり返って腹を見せてよ

 僕は犬になることにしたよと彼は言った。そうかいと私はこたえた。犬はいやなんじゃなかったの。いやだよと彼は言う。いやだけどしかたない。そうしないと、彼女はこっちを見てくれないからね。
 彼は半年前から取引先の女性にひどく心を惹かれて、いろいろとがんばっていた。でも彼女には恋人がいて、ほのめかしや遠まわしな口説きではぜんぜん効果がないのだった。だから直截にお願いするしかないと彼は決意した。ひっくり返って腹を見せる犬みたいに愛を乞うしかないと。幸いその他の人間関係は交錯していないので自分がみじめになる以外の損害はたぶんない。
 でもそういう相手って犬になってもだいたいだめなんじゃないかなと私は警告した。その気があったら察した段階でしかるべき反応を示すものでしょう。反応がないんだったら無駄犬に終わる可能性が高い。そのように察するのがいい年をした大人のコミュニケーション作法というものです。
 作法なんか犬に食わせればいいと彼は言った。無駄でなにが悪い。そこそこ会話する程度の親密さを持つ相手に好かれるのはおおむね悪いことじゃない。その気がなくてもいい気分にはなる。自尊心の足しになる。そうなったら僕は死ぬほどみじめだけど少なくともそれは彼女にとってマイナスではなくてプラスだ。私ってもてるなって思っていい気になればいいんだ。犬はそういうのを良しとする生き物だ。善良なんだ。私はほほえんで真実を告げた。この世には善良な生き物ばかりがいるのではないよ。彼女がもしも悪人ならあなたの薄皮一枚隔てて内臓をおさめた脆いところを思うさま蹴り上げるかもしれない。そしたらキャインと鳴きましょう。みじめですねえ。
 彼も笑ってそのときは聞いてくれと言った。拝聴しましょうと私はこたえた。それがいかにみじめか、どのようにみじめか、他の人のみじめさとどれくらい違ってどれくらい同じかを詳細に描写してあげましょう。潰れた内臓もちゃんと見てあげましょう。目撃して記憶してあげましょう。彼はゆったりとうなずく。心強いね。
 彼はため息をついて、ああ、彼女はほんとうに可愛い、と言う。聞いているとたしかにひどく可愛いんだけれどそれは彼の話しかたのせいだと私は思う。でも言わない。彼は深刻な顔で話す。うちの会社のばかな男どもを十人ぎゅうぎゅう押しこんだら反対側から彼女がひとりぽんと出てくる筒状の機械があればいいのにと思う。でもそんなものはない。だからしかたない。私はげらげら笑って、ばかな男どもの人生はどうなると言う。詰めるなよ、他人を。しかも十人も。やつらにも人権はあるんだからさ。詰めたいよと彼は言う。一貫してまじめな顔を崩さないので私は苦しくなるほど笑う。人は恋をすると身も蓋もなく愚かになるので私は恋をいいものだと思う。
 僕はそのほかのことに関しても犬になるんだ、と彼は言う。仕事で知りあったちょっと悪くない男がいてね、飲みに誘おうと思う。格好良いんだ、僕よりちょっと年上で、趣味がすごくいい。サヤカにも自分から連絡する。そりゃあ助かると私はこたえた。定期的に連絡を入れるのがおおむね私という状況には微量の負担があるからね。それを負ってもかまわないと思える価値があなたにはあるからそうしていたけれども。
 その価値があると認識したいから自分からあまり連絡しないんだと彼は言った。評価されていることをいちいち示されるのが気持ちいいから。でもそれで失われるものは大きい、とても大きい、なぜなら僕にそうしてやろうと思う人がたくさんいるほど僕はたいした人間じゃないからだ。僕はそのことに気づいたので犬になろうと思う。好きな人には好きだと言ってしっぽを振ってまとわりつこうと思う。けっこうたいへんだと思う。でもがんばる。その点サヤカはいいね、もともと犬だから。
 みじめな育ちだからですよと私は言う。初めからみじめだから犬になることに苦痛がない。その程度のことに苦痛を覚えることができるほど思い上がる経験をしていない。それをうらやまれるいわれはないね。彼は私の笑いかたを三秒観察して、そういうんじゃないと言う。育ちなんか犬に食わせればいい、どういう生まれ育ちでも犬になれないでそれがくやしくって犬に石を投げるやつはいる。犬になれるサヤカは裕福なんだよ。豊かですてきな生き物だ。犬の技術を持っているし毛皮にブラシもかけている。僕はそのことをうやらんだんだ。でもごめんね。
 いいよと私はこたえる。私の犬を褒めてくれてありがとう。あなたがよい犬になれますように。わんわんと彼は言った。わんわんと私はこたえた。