傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

空を飛んで助けに来てね

Skypeに応答するとなんで映像切ってるのと彼女は言う。部屋中に洗濯物を干してるからだよと私はこたえる。それに電話っぽいほうが違和感がないっていうか、映像までついてると、過剰な気がする、恋をして頭がおかしくなってるときにその相手を見る、くらいのときには映像つきでちょうどいいけど、ふつうの会話には要らないと思うよ。
私だけ映像見せてるなんて不公平っぽい、と彼女は言う。目の前のウインドウの中から手が伸びてきて、ウインドウの光が消えた。今のなにと訊くと絆創膏貼ったと彼女はこたえる。カメラだけ切る方法わかんなかったから、そこにあった絆創膏貼った。私は延々と笑い、何がそんなに可笑しいのと彼女は尋ねる。私は彼女の少し古いマッキントッシュに絆創膏がついている姿を想像してしつこく笑う。
最近はいいのと訊くとだいぶ、と彼女はこたえる。この数年、私たちは年に一度はそのようなやりとりをする。十年前、二十代半ばの彼女は、今みたいにのんきな人ではなかった。身体に病気を抱え精神にもさまざまな瑕疵があった。それだけでなく、彼女は過去にもいろいろなものを積み残していた。それに対して知らん顔をしていられる時間が終わりに近づいていた。身体の病と精神の不調と過去の問題はそれぞれが密接に結びつき、彼女のエネルギーを根こそぎ消費していた。彼女は長い時間をかけてそれらをほぐし、それぞれにしかるべき処置をほどこし、ゆるやかに処分した。
田村くんは元気と訊くとたぶん元気と彼女はこたえる。私と彼女と彼女の夫は大学の同級生で、彼女と彼女の夫はそのころから寄り添っていた。だから私は彼女の夫を田村くんと呼ぶ。彼女の姓だってとうに田村なのに、彼女自身も田村は、と言う。面と向かうと名で呼ぶのに、共通の知りあいにはそのように言う。
たぶんってなにと訊くとよく知らないと彼女はこたえる。最近あんまり話さないんだよ。私は少し黙る。彼らはちょっとどうかと思うくらい仲が良かった。大学の友人たちと一緒に集まることもあったけれど、ほんとうは周囲が邪魔なのに違いなかった。彼らは彼らだけが入る大きさのクリア・アクリルの球の中にいるように見えた。そこから出てこないまま私たちと笑って話していた。
どうしてと質問を重ねると私が健康だからじゃないかなと彼女はつぶやく。私もうぜんぜん元気だからさ、すっかり元気で、たぶんずっと元気だから。私はなお黙っている。受話器を耳に押しつけるのではない通話サービスでは雑音の種類を詳しく感じることができる。呼気。衣擦れ。キーボードに指の触れる音。
田村はねえ病気の女の子が好きなの、と彼女は言う。田村はね誰かを救うのが好きなの。私は救われて元気だから今は救うことができないの。もう女の子でもなくて、ずうずうしい大人なの。だから田村はきっとつまらないんだと思う。ちょっと前は会社の不安定な新人の相談に乗っててあやうく泥沼になるところだったみたい、逃げて帰ってきた。
私はようやく口をひらく。そういう話は、わからなくはないけど、でもあなたたちはそれだけで一緒にいるわけじゃないでしょう。それに人を助けたいこと自体は悪いことじゃない、私の会社の後輩と、あと古い友だちにもそういう人がいるよ、あの人たちを私は好きだよ。ピンチになったら呼ぶんだよって、彼らは言う、空を飛んで助けに行くからねって言う、空を飛んで助けに来てねって、私は言うよ。それを悪いことと思わないよ。
ため息と小さい笑いの中間のような音が返ってきて、絆創膏と私は思う。絆創膏を剥がしてください。やっぱり情報量は多いほうがいい。そう言わないうちに彼女は、私たちはそんな他人じゃないのよと言う。そんなね、ちょっとした友だちとか、会社の人とか、そういうんじゃないの。私たちは夫婦なの。私はあの人の伴侶なのにいつまでも助けられる立場になんかいられないでしょう。私はあの人と助けあって生きていきたいのに。
田村くん、どうでもいい病気の女の子と浮気してひどい目に遭ってあなたの良さを思い知ればいいのにねえ。私がそう言うと彼女は今度ははっきり笑って小さい声を出す。それを自分で予想したみたいで、浮気は思いとどまって地震のあと何度か被災地に行ったわ。善良、と私は言う。悪くないね、田村くん。
でも私はやっぱり彼女が田村くんに、私のピンチには空を飛んで助けに来てねって言えばいいと思う。それで私もそうするって言えばいいと思う。田村くんだっていつかは空から助けに来る誰かの姿を願ってしまうはずだと思う。