傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

彼が私を憎んでいたころ

 給食のときは机を向かい合わせに移動させる。席順は成績の順で、だから彼の周囲は首位グループだった。ずいぶんと露骨なシステムで、でも十四歳の彼がそれを気にしたことはなかった。マキノ私立はどこ受けんの。彼の隣の高木が言う。高木は誰とでも話す。女子が相手だって平気だ。可愛くても、可愛くなくても。マキノはそのどちらでもない。陸上部で無愛想で長い丈夫な棒っきれみたいだった。
 受けないよとマキノはこたえる。皿は隅々まで空いている。なんでと高木が訊くとマキノは牛乳を開封しながら、お金、ない、とこたえた。落ちたらどうすんの、と高木は訊く。どうしようとマキノは答えて牛乳を飲んでいる。彼は少しだけ彼女に対する印象を向上させる。高木が彼を見るので秘密と彼は言う。それから高木をなだめるために続ける。知ったらきっとびっくりするよ。だから待ってな。
 高木と仲良くなったきっかけは「ダービー」だった。定期テストは教科ごとに返ってくる。返ってきた順に集計し、あらかじめ決めた点数に達した者から順位をつけるという遊びだった。高木をはじめとする成績上位の何人かが「馬」として自分の点数を開示し、その他の生徒が何かを賭けるのだ。高木は彼を「馬」としてスカウトし、彼は乗った。マキノも乗ったのが意外だった。高木は五教科はすべて高得点でその他はやや低調だった。彼は全教科で比較的高い得点をマークし、数学が特にできた。マキノは逆に数学がおそろしくだめで、国語はいつも満点だった。
 彼らは「馬」として何人かに娯楽を提供した。だって楽しいほうがいいじゃんと言って高木は笑った。公立中学に来たのは受験に失敗したからだとあっけなく言っていた。俺あんま頭よくないんだ、おまえのほうがぜんぜんいい。彼が驚いて口にするせりふを一度も止めずに、でもぜんぶ右から左に流して高木は言った。俺はさ、札束で磨かれたみたいに金のかかった少年なわけ、しかも努力はして当然みたいな空気を吸って育ってるわけ。そんなやつがいい成績を取るのと、一円の金も一グラムのプレッシャもかかってなさそうなおまえがいい成績を取るのじゃ価値が違う。彼はひどくうろたえてその場から逃げた。うれしかった。
 彼は高木をうらやんだことはなかった。ただなんだかとてもいいものだと、そう思っていた。マキノのほうが少し妬ましいくらいだった。私立高校は受けられないという経済感覚のほうが彼にはリアルだった。大学はと訊ねるときっと無理だねえとマキノはこたえた。でもそんなの考えたことないよ、大学って十八とかで入るんでしょう、十八なんてフィクションみたいだ。
 彼は高木とマキノが受験の結果を待っている時期を狙って、教室の角で彼らをつかまえた。僕の受験の話、と言うと彼らは笑顔になった。彼はあらかじめそのせりふを練習したから平気な顔でいることができた。どこも受けてない、自衛隊に入る。ふたりの笑顔が消えた。そんなにいけないかな、と彼は尋ねた。そんなにびっくりして口も利けなくなるくらい、僕は不幸?

 彼の結婚式に呼んでもらったので喜んで行った。二次会の終わりにようやく彼は私たちの前に座った。私たちは互いにばらばらに人生を進めていた。彼は成人式のときも結婚式のときも、十五で選んだ進路の上を歩いていた。高木はどこかの省庁に職を得ており、そこに身分を置いたまま留学して戻ったばかりだというのだった。私は会社員になって三年目だった。大学はと彼が訊くので出たよとこたえると彼はよく抑制されたほほえみを浮かべた。彼は少しがっかりしてそれからそれを恥じたのだろうと私は思った。彼は中学生の時分からそのような品性をそなえていた。
 彼はひとしきり笑顔で話し、それからそれを少し翳らせて、ずっと謝りたかった、と言った。僕はふたりを好きだった、僕の友だちだと思ってた、中学生だと特に女子にはそういうこと言えないけどね。でも僕は高校に行けないと言ったあのとき、やっぱりきみたちを憎んだ。ふたりとも苦しめばいいと思った。ほかの誰よりも。
 私は少し黙って、当然だよとこたえた。でもそのあといい仕事をして、すてきな大人になって、もう私のことも高木のことも憎くなくって、だから今日呼んでくれて、話をしてくれたんでしょう。お嫁さんとってもきれいだね、礼服も格好良かったよ。
 彼はうつむいてはずかしそうに笑った。高木が無言のままテーブルに三つの瓶を置いた。牛乳だった。わざわざ買って持ちこんでいたのだった。彼と私は苦しくなるまで笑い、それから私たちは、それを掲げて乾杯した。