傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

水曜日の魚の話を

 水曜日は焼き魚のにおいがする。彼女はそう言い、そうなの、と私は返す。彼女はうなずく。今の職場は小さい雑居ビルの中にあって、隣が民家で、夕方になるとときどき晩ごはんの匂いがするの。それでね、今日は焼き魚だなあって思って、しばらくそう思ってて、気づいたんだけど、いつも水曜日なの。あのおうち、水曜日は魚の日なんだねえ。
 私は少し笑って、どんなおうちだろうね、と言う。時間帯が早めだからお年寄りじゃないかしらと彼女は言う。老夫婦じゃないかな、昔話みたいな。おじいさんは山へ芝刈りに、と私は言う。おばあさんは川へ洗濯に、と彼女は言う。それから少し声を落とす。私がお隣の夕餉の支度をかぎつけるほど嗅覚を発達させた理由を話してもいいかしら。

 彼女はこれまでの職業生活の大半を、いろいろなクライアントの会社に常駐して過ごしてきた。客先での作業が多いのだ。チームで入ることもあるし、今回のようにひとりで入ることもある。客先の社員たちと同じように扱われ、ロングアサインの終わりに送別会を開かれたこともあったし、席が用意されておらず、会議用の長机で作業を続けたこともあった。
 いずれにせよ彼女は平気だった。行く先々での自分の扱いにはさほど興味がない。パイプ椅子に座って十二時間作業したって平気だ。好きなお茶を詰めた魔法瓶とひざ掛けと肩掛けを持ちこむことができれば彼女はおおむね満足で、ドリップパックのコーヒーを淹れるための熱いお湯があれば完璧だった。
 新しい客先に入り、説明を受ける。作業にとりかかり、あれこれと周囲に質問をした。こまごまと確認しなければならないことがあったのだ。それに対する応答は用件に対して過不足がなかった。しばらくそれを繰りかえし、なさすぎる、と彼女は思った。過不足はあってしかるべきものだ。
 彼女は新しい場所に行くと必ず、先方からの説明の過不足を意識した。過分はその人自身に対するなにかを知る手がかりになったし、不足は質問の機会になった。質問と回答の往復は確実に対象との距離を縮める。内容とはおよそ無関係に、ただ会話したという事実に人は安心し、「知らない人」は「話したことのある人」になる。
 勤務開始からしばらく経った。彼女はいつもの魔法瓶からジャスミンのお茶を飲み、小さいため息をついた。世間話がこんなに困難な場所があると思ったことはなかった。必要な連絡や報告はおこなう。けれどもそこには余剰がなく、そしてそれ以外の会話は、なかった。今日なんか「おはようございます」しか言ってない、と彼女は思う。あとはたぶん「お疲れさまです」しか言わない。静粛なのはいいことだ。無駄がないのもいいことだ。それならどうして私はこんなに困っているのか。
 そのようなことを考えながら電車に乗った。彼女はひとりで暮らしていて、恋人は一年前からいない。そもそもいない時のほうが多い。友だちもそんなにたくさんいない。だから今週は人と口を利かないで過ぎてしまった。みんなどうして簡単に友だちや恋人を作ることができるんだろうと彼女は思った。それから多くはない友だちのひとりにメールを送った。
 私は頷いて、そんなに静かだと嗅覚も発達しちゃうねと言った。彼女は白茶の入った茶器をゆっくりと傾けて、言う。実はね、一昨日、自分の会社に呼び戻されたの。誰かが蹴られて怪我をしたのですって。私は驚いて、あの、主語と目的語を、とリクエストする。彼女はお茶をひと口すすり、小さい息をついて、言う。その客先の会社の人が、別の誰かに土下座させて、頭を蹴ったのですって。それをたまたま外部の人が、私みたいな立場の人かな、わからないけど、目撃して、騒ぎになったみたい。
 土下座はいけない、と私は言う。殴る蹴るにはそれなりの価値が生じる場合があるけど土下座には一グラムの価値もない。暴力のなかでもっとも卑しいカテゴリに入れるべきもののひとつだよ。彼女は困ったようにほほえみ、でも私、気づかなかった、と言った。私の嗅覚はそのにおいを感じることができなかった。
 あなたは悪くないよと私は言う。彼女は首を横に振る。誰が悪いとか、そういうことに、私は興味がない。ただ一緒に働いている人がどんな人間なのか一切知らずにいるというのはやっぱりよくないことだったと思う。そういう場所では相手が人間だってことさえ、ときどきわからなくなるのかもしれない。あるいは相手を人間と思わない誰かが、そういう静けさを生み出していたのかもしれない。だから私はきっと無理をしてでも水曜日の魚の話をすべきだった。誰かをつかまえて、つまらない話をしなくちゃいけなかった。