傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

速度と孤独

少人数の遠慮のないミーティングだった。私たちは考え、話し、聞き、訊いた。ホワイトボードの前にひどく耳の良い人がいて、四色のペンを駆使して議論の骨子をきれいに書き留めた。
ひとりが口をひらくと、私たちは黙った。誰もその人の言うことを理解できなかった。ずいぶんかけはなれた概念を唐突に持ってきたように思えた。その人はふと羞じらうように視線を左右に泳がせ、それから無表情のまま、軽く片手を挙げて目の高さの少し下の空気を何度か撫でた。誰かがあっと言った。あの、それ、こういうことですか、つまり。
延々と続く解説を、私たちは聞いた。私の思考の速度では、少なくとも五往復の発言と質問を経ないとたどりつけない内容だった。合ってますかと訊かれて、訊かれた人はかすかにうなずく。そういえばこの人はいつも傲岸に見える無表情で、でももしかするとなにか負い目を感じているのかもしれないと唐突に私は思う。それから自分のメモを目で走査して口をひらく。
かっこいいよねえ、いいなあすごいなあ俺もあんなふうになりたいよ、でもなれないよねえ、いいなあ。彼はそう言い、私は彼のあまりの衒いのなさに少し笑う。私たちはミーティングを終えて自動販売機の前に来ていた。紙のカップの中には黒い色がついてコーヒーのようにも思える液体が入っていて、少なくともあたたかくて香りがついているので私は百円払ってそれを飲んでいた。
彼はコークの缶を急角度で傾けてからひゅうっと音をたててため息をつき、ねえあの人ほんと頭いいよね、あんなにかしこいと毎日どういう気持ちするのかな、と言う。
さみしいと思うよと私は言う。あの人は速い、すごく速い、本人も速いのが好きなんだと思う、だから速く走る、そして誰も彼についていけない。そういうの想像するとさみしい。
彼は眉を変なかたちにして、なんで、いい気持ちしないの、と訊いた。私は本人じゃないからわからないよと苦笑してから、推測を口にする。
だってあなただって休憩中には私とかとしゃべってるでしょう、あの人じゃなくって。私たちあの人を、すごいねすごいね頭いいねって言って、でも知ってるかな、そのあとにみんなこう言う、宿題出されちゃった、駄目出しされちゃった、私も私も、がんばらなくっちゃね、おつかれさま、ごはん食べに行こうよ。みんなすごいねすごいねって言ってその足であの人から後ずさってよりあつまってあの人抜きで楽しそうにごはんを食べている。
彼は口を大きくひらいて、せつねー、と言った。それが「せつない」に感嘆符をつけたものだとわかるまで、三秒が必要だった。私は彼に訊く。でもあなたあの人を遠ざけたいと思っていないでしょう、ちょっと話してみたいって思ってるでしょう、あの人のこと好きでしょう。すきすきと彼は言い、私はそのあまりの素直さに少しいらつく。好きなものを平気で好きと宣言できる彼の情緒の基盤の盤石さが私はいやだ。とてもいやで、とてもいいと思う。そしたら、と私は言う。そしたらあの人みたいな人のさみしいのをどうにかできるのはあなたみたいな人なんだよ、すきすきって寄っていってあげなよ、かっこいいなあ、頭いいなあ、ごはん食べましょうって、そう言ってあげてよ。