人間ドックに行ってきた、と彼女は言った。私は行ったことがないので、どんな感じのものなのか教えてもらった。
ひととおり話したあと、でも私えらいわあ、と彼女は言う。
「だって注射針がすごく怖いのに、強制力のない健康診断を受けたんだから。夫がうるさく行け行けって言うから、がんばって受けたの。自分で自分を褒めてあげたい」
彼女は先端恐怖症なのだそうだ。私はうなずき、痛いのいやだもんね、と言った。すると彼女はちがうちがう、と言う。
「全然ちがう。私、痛いのにはわりと強いの。だってねえ出産ってものすごく痛いのよ。痛いの駄目だったら一人目で懲りる。絶対懲りる」
彼女は子どもがふたりいて、三人目の出産を検討している。
「先端恐怖症っていうのはね、痛いのがいやなんじゃないの。痛いのはあんまり関係ない。痛いのじゃなくって、針っぽいのが嫌なの。注射のあとはかならず貧血を起こすくらい」
ちくっとするのを想像するのがが嫌なの、と訊くと、またしてもちがうちがう、と返ってくる。
「細くてとがってるのが嫌なの。それがなにかやわらかいものにもぐりこんでいくイメージがいやなの。いやなのに想像しちゃう。なぜかリアルに想像しちゃう。注射針なんて、金属ですごく硬くて、その先が斜めに切り落とされてるのよ?しかも筒状なのよ?それが皮膚にずずずずって、あーいやだ、うーいやだ」
彼女はそれから眉をぐっと顰め、あたたかいお茶を飲んでから私を見かえして、少し照れたように笑った。私は口を半開きにして感心した。痛いのは関係ないのか。でも私は細くて金属ですごく硬くて先が斜めに切り落とされていて筒状であることがそんなにいやだというのが、実感としてわからない。そう説明すると彼女は、怖いっていうのはそもそもそういうことかもね、と言う。
「たとえば私、虫はぜんぜん平気なのね。虫が怖い人は細部にわたって虫の気持ち悪さを説明するけど、そのディティールは私にとってちっとも怖いものじゃないから、いくら分解しても無駄なの。虫が怖い人だって、ほんとはディティールが怖いんじゃない。脚が六本で急に飛ぶとか、そういうののいちいちに恐怖が宿ってるわけじゃないんだと思う」
私は口を閉じて考える。つまり、怖いという感覚はとても特別なこと、言語による記述が追いつかない領域のこと、なにかの理由にはなってもそれ自体は理由を持たない、理性の底のほうにあるものだと、彼女は言いたいのだろう。
他人の感じる怖さは、少なくともことばを通じては把握できない。同じものが怖い人同士にしか想像できない。同じものが怖い人がたくさんいるよこともあるし、すごく少ないこともある。彼女は先端恐怖症だから、痛いのを怖がっていると勘違いされることが多くて、違うのになと不満を感じ続けて、そういう考えを持ったのだろうと思う。