傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

熊の穴ぐらに関する経験

彼はつるりとした、フィルムのような瞳をしていた。見たところ四十代後半だけれども、予備知識によればそれよりひとまわり年上のはずだった。だから彼はある側面では老境にさしかかっており、でもそのつるりとした瞳には、大人らしい思惑や警戒心や洗練や保留が一切なかった。
彼の隣に座っていた人が、僕は昔ひきこもっていたんですよと言うと、一緒にお酒を飲んでいた仕事の関係者はみんな、ざわめいてその人のほうを見た。その人は陽気で快活で、ちかごろ業績が上がっていて、しかもまだずいぶんと若く、だから昔といってもそれほど前にひきこもっていたわけではないはずで、それでみんなびっくりしたのだった。
その人の話が一段落したとき、彼は小さい声で、僕は図書館でひきこもっていました、大学生のときにずいぶん長いあいだと、そのあとも何度か、会社勤めをしながら、と言った。
私は、それは一般語としてのひきこもりとは少し違います、と言った。でもわかります、私もときどきそうしていました、あるときは長いことそうしていました、または断続的にそうしていました、つまり自分のなかにあるものと対面するということです、うまく言えません、部屋から出ないのが重要なのではないんです、自分のある部分が閉じて、閉じたなかで活動しているということなんです。
つまり、と彼は平坦な口調でつづけた。熊の穴ぐらのようなところにいるということですね。私はうなずいた。ええ、そうです、熊の穴ぐらにいるということです。
あの人は、と彼はさきほど注目を集めた快活な人を見て、言う。引きこもってインターネットに接続していたと言いますね、それは熊の穴ぐらではないです、熊の穴ぐらは、他者とのコミュニケーションのない世界です、そこに入る前のインプットはずいぶんあるように思いますが、ずいぶん、あるいは、断続的に。
彼はするすると話を続ける。
僕は、そこにいるときなにも考えていません、また誰も僕の世界にはいません、たとえば僕は新幹線に乗って東京から京都に行くあいだ何も考えない、目の中の景色が変わり、僕はそれを見ています、言語化されない情報処理はあるような気がしますが、結局のところなにひとつ覚えていません、僕はそのとき、熊の穴ぐらにいます。
わかりますと私は言う。でもその濃度と範囲はきっと違うのでしょう、私は新幹線に乗ってもかならず熊の穴ぐらにたどり着くとは限らないのです、本がなければ間がもたないこともあります。
穴ぐらですから、と彼は言う。熊によって大きさも深さもかたちもありかも違います、しかしそれを体験している人はなんとなくわかります、だから僕はそういう人には熊の穴ぐらの話をする、そうすると相手は必ずそのことを理解する、だからこれはわりに一般的な話ではないかと思います。
彼はそう言い、私はそうだと思います、と言う。私も熊の穴ぐらに関する経験を持っている人を幾人か知っている。でも目の前の彼はあまりにも簡単に熊の穴ぐらに入るように見える。だから、それはなぜでしょうか、と私は訊いてみる。
すると彼は例のフィルムを貼ったような瞳をまたたかせて、それは僕がバス停の前の商家の子だからです、と言った。
僕は、小さい町の小さい呉服屋のような家の子で、家の前にバス停とたまにしか来ない電車の駅があって、うちではその切符も商っていて、お客さんはうちでバスや電車を待つんです、だから僕は知らない人と一緒にこたつにあたりながら大きくなりました、僕は知らない人の前で絵かなにか描いています、その人はバスを待っています、あるいは電車を。
それは子どもにとっておもしろいことでもあるけれど、疲れることでもあるかもしれませんね、と私は言った。彼は頷き、だから僕はこう、と両手ですっと身のまわりの架空の壁をなぞってみせる。
僕はこう、誰も入ってこられないところをつくりました、ごく小さいときに。あまりに小さいときに覚えたので、熟練したんですね、だから僕はとくに簡単に穴ぐらに入る熊になりました。