傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

南の島のわがままな王さま

本を作る人のことを考えたことはなかった。
本を読むということに関して、私はたとえば、南の島のわがままな王さまだった。小さい島をてくてく歩き、そこいらになっている果物を物色してもぐもぐ食べ、気に入れば食べつづけて、少しでもひっかかるところがあると、「このバナナはまだちょっと若いな」とか「パイナップルはおいしいけどあとで喉がいがいがする」とかけちをつけて道ばたに捨てていた。私にとって読書とはそういうものだった。私は消費者で、消費者は王さまだから、好きなようにしていればいいんだと思っていた。
でも最近、本は生身の人間が作っているものなんだということが、ようやくわかった。知識としては知っていたけれども(いくらなんでも三十二にもなって、「どこかの島には文庫本のなる木が生えていている」とは思っていない)、それをひしひしと感じた。
そういう話をすると、本を作る編集者であるところの彼女は、よくわかります、と言った。
わたしも自分が出版の仕事をするまではそれに近い感じを持っていました。なんだか特別な人たちが遠くで作ってくれてるんだろうって。でもこういう仕事を始めたら、飲み会にふつうに作家がいるわけです。あの○○が、居酒屋で!醤油にわさびをといている!お刺身に直接のせたほうがおいしいのに!とか思うんです。あんまりふつうの人でびっくりしたんですけど、そんなのあたりまえですよね。でも本読みはどこかから本が降ってくるって、そう思ってしまうところがありますよね。
私は首を何度か縦にふる。彼女はにっこりと笑い、自分が作ってきた本の話をしてくれた。文芸評論家の名前が出てきたので、私は言う。
あのう、私、評論ってぜんぜん読んだことなかったんです。ほら、なにしろ王さまだったので、他人の読みかたとかどうでもよくて、小説読んでたほうが楽しいやと思ってて。
彼女は少し目を大きくして、ゆっくりと話した。
ちょっともったいないですね。評論は楽しいですよ。わたしは好き。だって、自分の好きなものの話をしたいでしょう。みんなとおんなじものを読んで、これおもしろいねって言いあいたいでしょう。的確な評論はその欲求を満たしてくれますよ。
私は「みんな」なんかいらないと思っていた。好きなものを自由に食い散らかしているほうがいい、私の楽園に誰も入ってこなくていい、ずっとひとりでここにいるんだと、そう思っていた。
そういう意味のことを口にすると、さほど年上でもない彼女は、でもなんだか母親みたいな、やさしい顔になって、それじゃあ、ちょっと寂しかった?と訊いた。私はなんだか逃げだしたくなり、そのくせやけにいい気持ちで、はい、とこたえた。