傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

イノセンスのためのフィルタ

簡単に穴ぐらに入る熊であるところの彼は、大勢がてんでに話す宴席でペースを乱さずに食事を続けている。彼はぼんやりしているといえば、ぼんやりしている。観察しているといえば、観察している。周囲の話にも加わるし、一対一でも話す。少なくとも不機嫌そうではないけれど、感情らしいものはほとんど見うけられない。ではこの世から遊離しているかといえば、そうではない。彼はしっかりと目の前のものを見、認識し、考慮している。ただそれは彼が彼の周囲につくったエリアの中には決して浸透しない。だから彼のある部分は、ほとんど異常なくらい子どものままだ。
そうではないかと訊くと彼は、はいときどきそう言われます、と言った。僕は知恵のついた二歳児のようだと言われます、ときどき小さい子がじっと見ます、親に手を引かれて通りすぎても何度も振り返って見る、あれは僕を仲間だと思ってるんじゃないかと、友人にそう言われたことがあります、どうも若いころからずっと、四十年くらいそんなふうです。
その通りなのだろうなと、私は思う。そういう人はときどきいる。彼らは大人らしい価値観を理解する。しかしそれを内面化しない。彼らは人々が自分と違うことは認識している。でもそのことについて深く考えることはない。彼らは他人がなぜ自分のようでないか理解しない。他者の価値観について掘りさげて考えるということは、少なからずそれを内面化する行為だからだ。彼らの中には強靱なフィルタがあり、彼らがごく早い時期に確立した礎に傷をつけるものは透過させない。それと邪悪さが結びつくと大変なことになるけれど、彼は幸い、そうではないようだった。
あなたは他人が何かを手放したことを知っています、と私は言った。でもそれについては意図的に考えないようにしている。
彼は、そうですね、おそらく、しかしそうだと言い切ることはできません、僕は、そういうのは明確にすることではないと思っています、それが、あなたの言う意図というものかもしれません、と言う。
私は思う。
子どものイノセンスは脆弱だ。子どもはすぐに大人になる。ありふれた子どもが、ありふれた大人になる。私は、いま自分が大人であることが、そんなにいやではない。他人につられてなにかを好きになったり嫌いになったり無理をしたり虚栄心にとらわれたりするのが、そんなにいやではない。でも、大人のくせに二歳児のような目をして、それで平気で社会人をやっているのは、彼のイノセンスとそのためのフィルタがおそろしく強靱だからだと思う。私は彼のイノセンスそのものより、その強靱さを美しいと思った。