傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

あこがれと可能世界

仕事の関係者との飲み会で、共通の知りあいの話になった。私はその女性がたいへん好きで、「あの人、綺麗ですよねえ。私あの人が来る会議がたのしみなんですよう」と言った。そうしたら、そこにいた旧知の男性からあきれられた。
「昔から不思議なんだけど、女同士でそういうこと言う人ってときどきいるよね、なんで?異性愛者なのに言うよね、あの人綺麗とか可愛いとか。意味わかんない」
そんなのこっちが呆れる。あこがれとかないの?「恋愛対象じゃないけど、すてき」っていうのはないの?「ああいうふうになりたい」とか「自分とはぜんぜん違うタイプだからこそ目がいってしまう」とか。
そういうふうに抗議したら、彼はしばらく考えて、いくつか私に質問をし、それからこう言った。
「もしかすると、あなたたちは『そうであったかもしれない自分』に敏感だから、同性にそういう感覚を持つのかもしれない。こうする習慣をつけていたら、こういうふうに価値観をずらしていたら、もしこれが手に入っていれば、もしあのときこちらの道を選んでいたら、みたいな」
私はうなずく。ほかの人のことはよくわからないけれど、私はよくそういうことを考える。
「うん、わからなくもないな、つまりあなたが熱心に見ているあの人とかあの人とかは、別の選択をした自分であったり、欲しかったけれど持っていない素養があるバージョンの自分だったりするわけだ。そうしたら、もしかして男にもそういう感覚をもつことはある?恋愛じゃなくて、もし自分がこんな人間だったら、というような」
私は、もちろんありますよ、と言った。
「そう考えるとたしかに、欲望の対象にしか思慕を抱かないなんて、つまんないことなのかもしれないな」
彼はそう言い、何を当然のことを言っているんだろうと私は思う。あなたは私にとってそうです、私が男だったら私はあなたみたいになりたかった、とってもなりたかった。そう言いたかったけれど、やめた。彼はすごい照れ屋なので、身も世もなく恥ずかしがるだろう。いま言ったら気の毒だ。もっと年をとってから言おう。