傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

骨伝導と適切な距離

何年か前に、骨伝導の音声デバイスを試すための実験を手伝った。携帯電話と接続されていて、相手の身体に直接音声が伝導され、とても近しく聞こえるというしくみだった。
実験者は親しい相手と一組の被験者を集めた。私が手伝ったときには、二十代半ばの男女が来た。
被験者の男性は携帯電話に接続された骨伝導の装置を身につけて外に出、実験者とその助手である私、それに被験者の女性が研究室に残った。実験者は年齢のよくわからない、つるりとした額をむきだしにした女の人だった。彼女の白目はひどく白く、虹彩は瞳孔との境目がほとんど見えないほど黒く、目のほかはぜんぶ小づくりだった。しばらく待ってから、被験者の女性は彼女の恋人に電話をかけた。
もしもしと彼女は言った。もしもしと彼はこたえた。今どこと彼女は訊いた。駅前と彼は言った。裏のほう、北側、なんだかいい匂いがする、ここお昼もやってたんだね、ランチとか出してるんだ。彼女はその屋号を口にし、彼はそうそうと言う。それから彼らはしばらく穏やかな会話を続けた。少し沈黙があって、彼女はまた、歩いてるの、どこらへん、と訊いた。彼は通りの名前を口にし、それから、実験者に変わってほしいといった。
実験者は電話を替わって(実験者側の装置は、まったくただの携帯電話なのだ)何度か相槌をうち、それから電話を切った。しばらくすると彼が戻ってきた。
彼女は彼にコーヒーをすすめ、彼はため息の代わりのような息でその液体の温度を下げながら、美味しそうに飲んだ。彼女はどうですかと曖昧な質問をした。彼は、良くないと思います、と言った。
どうして親しい人とセットで来るように言ったんですか、あなたはもしかして工学者じゃないんじゃないですか、心理学者だとか、まあなんだってかまいません、とにかくあれをからだにくっつけて路上で親しい人と話をさせるのはあまりいいことじゃないと思います。
彼女は動じない微笑のまま、どうしてそう思いますか、と訊いた。彼は続けた。
街中にいるとき、人は山奥にいるよりずっと孤独です、なぜなら他者はたくさんいるのに誰ひとり手が届かないし、届ける必要もないからです、そして僕らはそれを日常として生きている、むしろ楽しんでいる、そうして我慢できなくなると他人とつながろうとする、つながった他人が永遠にとくべつであるような錯覚を持つ、とても簡単に持つ、でもほんとうはその相手はとくべつでもなんでもない、ただの他人です、あの駅前の道を歩いている人たちと同じ平板な他者だ、僕らは相手が特別だという錯覚と、それは錯覚だというメタな認識をかろうじてバランスさせてまともな社会生活を送っている。
彼はそこまで早口で話して一息つき、もう少しコーヒーをいただいてもかまいませんかと訊いた。彼女は儀礼的な微笑をうかべて新しいコーヒーをつくった。彼はどうもありがとうと言った。そうして彼女と同じように口の端を上げた。彼は戻ってきてからしばらく、そのような社交的な笑顔を提供していなかった。
あれは自分のからだの中からの声みたいに他人の声を届けます、と彼は言う。
そういう技術は距離感を混乱させます。僕らは距離をゼロだと錯覚してしまう。装置がなくても錯覚します。こんなに親しいのだから隙間なくぴったりくっついているんだと思う。でもそれは嘘です。誰かと誰かがぴったりくっつくことなんてありえない。でも僕らはそういう錯覚を持ちたくてしょうがない。なにかというと勘違いしようとする。だからそれを強烈に助長する装置を携帯電話につなげたりしてはだめです。他人には距離がなくちゃいけない、声が遠くて、ノイズが入るような、適切な距離が。
彼はそこまで話し、それからまたコーヒーをすすり、どういうわけか、ごめんなさい、と小さい声でつけくわえた。