傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

恋のような湿度と温度

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それから三年、人に会うことに制限はなくなったが、その間についた習慣が消えるのではない。わたしにとってのそのひとつが友人からの通話である。
 わたしたちは中年であり、通信量が事実上無制限になって高品質通話が無料でできるときに青春を過ごした世代ではない。それだから若者たちのように通話をつなげっぱなしにする習慣はないのだが、疫病以降、一部の友人からの通話は長くなった。適応、とわたしは思った。
 このたびかけてきてあれこれかきくどいているのは古い友人である。この人が通話をかけてくるときの目的はおおむねひとつである。

 もういやになっちゃって、つくづくいやになっちゃって、だってあの人わたしが予約したレストランが気に入らないからって不機嫌になるし、だからといってどこに行きたいと自分から言うのではないし、他の誰かに会いたいときには自分で連絡しないでわたしに遠回しな要求してわたしが察しないとやっぱり不機嫌になるし、旅行の手配だって全部わたしがやっているのに些細なことで「やっぱり旅行は好きじゃない」なんて言うし、そりゃ誘ったのはわたしよ、だけど「行動制限も解除されたことだし旅行しないともったいないよね、あなた旅行大好きだったのに行けなくてつらかったよね」なんて言うからさ、連れて行ってほしいのかと思うじゃない。

 彼女はかきくどく。わたしはスマートフォンを冷蔵庫のホルダーにのっけて適当に返事をしながら玉葱を刻む。にんじんを刻む。セロリを刻む。にんにくを刻む。今夜はボロネーゼである。休日の夕方にこの人から通話がかかってくると、やたらとものを刻むメニューをわたしは作る。
 なにしろ話題がだいたい同じなのだ。わたしはただ聞いてそうかそうかと言うだけの係である。手仕事でもしているのが良い。不毛な恋愛話を聞くときにはだいたいそうしているように。
 ただし、このたびの通話の相手はそれを恋愛と呼ばない。たぶん誰も恋愛だとは思わない。わたしも思わない。でも「痴話げんか」としか言いようがないのである。
 彼女の話は続く。

 わたしこんなにしてあげてるのになんて思いたくはないのよ。でもあの人、男にはものすごい気遣いするのよ。また例のパターン、ほら、顔を褒められて好きとか言われると一発でのめりこんじゃうやつ、相手に彼女がいるか結婚してるかどっちかのやつ、もののわかった二番目の女になるやつ、相手の男にはぜったい文句言わないでいい子にしてて面倒かけないでにこにこしてるやつ、プライドないのって思う、それでわたしの扱いはこれよ、もういやになっちゃって、ほんとにいやになっちゃって、ねえあの人、クズ男に向ける気遣いの千分の一でも、わたしに向けたことがある? ないよね? ねえわたし文句言っていいよね?

 言いなよ、とわたしはこたえる。でもわかっている。文句を言うときでさえ彼女はその人にすごく気を遣う。察して先回りして気分を悪くさせないように振る舞うフレームから抜けることを考えもしない。自分の夫には率直にものを言うのに、特別な女友達にはぜったいにそうしない。
 わたしは思うんだけれど、彼女と彼女の愚痴の対象である女性はとてもよく似ている。恋のような湿度と温度を持つ相手には徹底して利便性の高い存在のように振る舞い、そうでない場所に「遠慮しなくていい用」の人間を確保している。神みたいな相手を作ってその神殿に供え物を積み上げ、不満を募らせ、同時に自分の感情の特別さを称揚し、とても美しく高尚なものとして扱う。
 一度なら事故、二度目以降は癖、とわたしは思う。神のような相手を作る人には神を必要とする何かがある。「上」の存在を必要とする心。神がセックスの対象かそうでないかも決まっていて、それもその人の心の何かが反映されているのだろうと思う。
 そこまで類似していると、もうぜんぶ「恋」でいいような気がしてくる。神のような男に仕えるヘテロセクシャル自認の女も、神のような女に仕えるヘテロセクシャル自認の女も、みんな恋をしていると思えば、なんだか納得するのである。

 ボロネーゼを煮る。わたしのボロネーゼソースは通常のレシピの二倍の香味野菜が入っていて、たっぷりの挽肉を揚げ焼きにして焦げ目をつけてから煮込む。「わたしの野蛮なボロネーゼ」と呼んでいる。

 もう別れたら、とわたしは言う。別れるって、と彼女は笑う。恋人じゃあるまいし。

彼女がいちばんきれいだったころ

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それから三年ばかり、久しぶりの連絡が増えている。そうして「実はあのころ」という話を、ぽつぽつと聞く。実はあのころ、子どもが不登校になってね。いいえ、中学校に上がったらけろっとしちゃって。実はあのころ、わたしガンになってね。いいえ、もうほぼ完治してる、ちょっと手術しただけで、予後がすごくいいタイプのもので、たまに検査しに行くだけで、ほんとうにどうということもない。
 全部終わったから、言うんだけど。

 疫病の流行からしばらく続いた、いわゆる行動制限中でも「この人たちなら」と思って会う人には、彼女たちはその話をしたのだろう。わたしにとってそういう仲でなかった人たちは、その身に起きたあれこれを黙っていて、今になってぽつぽつ話す。

 わたしには年長の女友達がいくらかいて、なかでもわたしに年の近い人が、やはりそのように言うのだった。男と暮らしてるのよ、二年前から。すぐ終わると思って、それで話題にするほどでもないと思って、べつに秘密にしてたわけじゃないから、今になってみんなに言っているのよね。
 彼女は当年とって五十歳である。わたしと知り合うずいぶん前、二十代で一度結婚して数年で離婚して、それから「恋愛はするけど結婚はもういいわ」「同棲もしたくない。わたしに得がないもの」「だってわたしそこいらの男より稼ぐし自分より料理が上手くて家事をやる男も見たことがない。結婚って、まさかわたしにごはん作ってもらって掃除してもらって稼ぎを半分もらいたいなんて、そんな恥知らずなこと考えてないわよね、と言うと、どいつもこいつも黙るのよ、それなら最初から黙っていらっしゃいよ」と笑う、そういう女なのだった。

 どういう人、とわたしが訊くと、彼女は神妙な顔して、わたしのお世話してくれる人、と言う。昔ねえ、と言う。男の友だちが、「再婚しないの?」とよく訊いたのよ。「しない、男の世話をしたくないから」と言うと、「きみの世話してくれる男と結婚したらいいのに。何も籍入れろって言うんじゃないよ、きみは何でもできるけど、誰かの世話になったほうがいいよ、きみにはそれがよく似合うよ、息を吸うように人の世話する男っているんだよ、俺みたいなさ、まあ俺はすでに幸せな結婚をしていますし妻を愛していますし息子も最高ですし第一きみは友だちであってそういう気持ちはまったくないですが」と、こう言ったのね。「それできみは僕の妻と同じタイプの人間だと思うわけよ、似てないけど、ぜんぜん似てないけど、誰かにお世話されなよ、そういうのがよく似合うよ、そのショートカットみたいにさ、そのピアスみたいにさ、よく似合うよ、男って言ったけど、男じゃなくてもいいからさ」って。
 それから二十年、数年おきに同じこと言われて鼻で笑ってたんだけど、あのね、いたのよ、わたしの世話をする男。

 ええ話や、と誰かが言う。いい話だ、とわたしも言う。

 あなたがいちばんきれいだったころ、と誰かが言う。今が悪いって言うんじゃないよ、でも若いってやっぱり勢いがあってわかりやすく麗しいものじゃない、わたしはそう思うのね、わたしたまに夫に見せてやりたくなるのね、わたしがいちばんきれいだったと、わたしが思っているときの姿を。あなたはそういうことない? 年いってから知り合って一緒になったとしたら、よけいにそれが気になるように思うんだけれど。なにしろあなた、そりゃあたいしたものだったじゃない。わたし好きだったよ、二十代のあなたのビジュアル。
 彼女はゆったりと言う。見せてやりたくないこともないわ。でもあの人もわたしもね、そのころ会ったって恋愛しなかっただろうし、一緒に住もうなんて少しも思わなかったでしょう。きれいだから好きになるのではないなんて、当たり前のことでしょう。好きになったからその美しさを特別に感じるだけのことでしょう。
 あの人はわたしの完全な運命の人なんかじゃないの。どこでいつ出会ってもわかるみたいな、ファンタジーの存在じゃないの。ただ知りあったタイミングが良かっただけなの。
 あのときじゃなかったらわたしは彼をなんとも思わなかった。あのときじゃなかったら、あの人じゃなかった。あの人もきっとそう。わたしがきれいだろうが子どもを産める年齢だろうが定年までだいぶ時間があろうが、わたしたちにはきっと何も起きなかった。
 だからいいのよ、わたしがいちばんきれいだったころの姿なんて、みんながいちばんきれいだったと言うであろう時期のことなんて、わたしたちにはどうでも。

利益つきの友情

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。通達は何度かマイナーチェンジしながら繰り返され、近ごろ事実上ゼロになった。「行動制限なし」というふうに呼ばれている。
 昔の友人から「行動制限もなくなったし子どもたちも大きくなったので、飲みに連れていってほしい」というメッセージが入った。わたしは少し驚いた。
 この人に会うこと自体は三年ぶりである。しかし二人で会うことは十年以上前からなかった。友人が子どもを置いて外出することができないからだ。この人が結婚して以降、夫抜きで会ったことがない。子どもができる前も、必ず夫を同伴していた。
 わたしはこの夫に興味を持つことができず、どちらかといえば不快な人間だと感じていたので、友人の家に行くのは年に一度か二年に一度にし、そのときは別の友人も誘う習慣を作った。その場にいる人間が増えればわたしが友人の夫の相手をしなくても済むからである。

 子どもたちももう赤ちゃんじゃないのだし、旦那には「たまに小学生二人との留守番くらいするのは当然のことです」と言ったの。友人はそう言った。三年前に会ったときよりずっと若々しく見えた。髪やメイクのせいかもしれないし、不健康に痩せてしまっていたのが少し戻ったのかもしれない。つるりとした質感のいかにも新しい服を着ているし、アクセサリーの組みあわせも今っぽい。
 わたし、もう、つくづくいやになっちゃって、と友人は言った。旦那はひとの気持ちがまったくわからない人間だから。わかろうという気もないの。話すだけ無駄なの。でも役には立つのよね。だからしょうがないんだけど。とはいえわたしの友だちを呼んであげる必要はもうないわ。自分に友だちがいないからってわたしの友だちを呼びたがるの、本当にいやだった。でも子どもがすごく小さかったから。どうしようもなくて。

 わたしはあいまいに笑った。やっぱりな、と思った。この人は自分の夫が楽しく話せる相手でないとわかっていてわたしたちを呼んでいたのだ。わたしたちはこの人の手持ちのカードとして「子どもたちがなついている友人がやってきて楽しい週末を過ごす日」を、夫に提供していたのだ。
 世のなかにはそのように自分の交友関係を使用して別の人間にサービスする人間がいる。
 もう一軒いきたいなと古い友人は言う。夢みたいに楽しいからと言う。だからわたしは途中下車して、自分がときどき行くバーに寄ることにする。

 ばかじゃないの。
 古い友人を振り切るようにして帰宅すると、同居している恋人はあっさりそう言った。それ完全に最初から狙ってたやつじゃん。あんたが飢えたかわいそうなレズだからちょっと誘惑すれば尻尾振って「彼氏」役になると思ってたやつじゃん。
 わたしは古い友人から「ラブホテルに連れて行ってほしい」とまで言われ、大笑いしてごまかして逃げ帰ってきたのだった。
 いるよそういう女。恋人は言う。ヘテロだけど、まあまあ稼いでていい店連れて行ってくれて「引っぱってくれる」タイプの女を都合良く使おうとする女。その子、別にあんたに恋なんかしてないからね、言っとくけど。
 わかってる、とわたしは言う。ちょっとした現実逃避のための「男役」が欲しかっただけでしょ。そういう人たちにとって「彼氏」の機能がそなわってるけど生物として男性じゃない存在が便利だってことは、まあ想像つくよ。でもそんなちょっとした逃避に二十年来の友だちを使う?
 使う。恋人は断定する。あんたにとってはマイノリティの自分を否定しない同性との長年の友情は大切なものなんだろうけど、向こうにとってはべつにそうじゃないから。あんただってわかってたんでしょ、昔から、旦那に楽しい休日を過ごさせるためのカードだったんでしょ。なんで今更ショック受けるのよ。便利なのは一緒でしょうよ。
 わたしにとってはあんたのほうがわかんない。「なめやがって」以外の何者でもないじゃん。その場でLINEブロックしないなんて、意味わかんない。そこまで虚仮にされてまだお友だちのふりをして何もなかったみたいなメッセージを送ってあげるなんて、ぜんぜんわかんない。

 わたしは力なく笑う。わたしは女たちの、わたしの恋愛対象でない「普通の」女たちがときどき示す狡さに、気づいていないのではなかった。多少の計算があってわたしに近づいてきたのであっても、ほんとうはいくらか蔑まれていたとしても、仲間に入れてほしかったのだ。

育ちの良い女の子を見抜く方法

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのために恋愛や結婚の相手を探すプロセスも大幅に変化したようである。わたしはいま現在新しく相手を探す必要を感じないが、人生には何があるかわからないのだし、昨今はどうなのかしらと若い人に尋ねたら、共通のコミュニティで相手候補を紹介しあうようなことは減っていて、アプリで個別に出会うほうが主なのだそうだ。
 そりゃいいねえとわたしは言った。仕事が絡んだりすると面倒だものねえ。仲間うちでごたごたするのもねえ。
 若者はうなずき、しかしですよ、と言うのだった。アプリにはいいところもあります。でも困ったこともある。まずマッチする人が多い。東京にいて二十代だと候補が多すぎて、スペックで判断するしかない。それで気の合う人に当たるまでくじを引き続けるのはたいへんすぎる。お互い気に入るまでどれだけ試すのかと思うと気が遠くなります。ほんとうに疲れる。昔は合コンとかよくやってたんでしょう、それってどんな感じでしたか?
 わたしは苦笑する。そして言葉を選ぶ。そうして言う。たいして変わらないですよ。

 「それ差し歯でしょう」。
 わたしが数あわせで呼ばれた何度目かの合コンで席に着くなり言われたせりふである。医者と歯医者が来るという話だったので、さてはこいつ歯医者だなとわたしは思った。そしてにっこり笑って歯を見せ、そうです、さすがですね、と言った。数あわせで呼ばれたなりの儀礼はやるが、「きゃーなんでわかったんですか」まではやらない。
 歯医者のツカミはばっちり、他の女の子たちが「きゃーなんでわかるんですか」をやり、男たちはよいアイスブレイクを得て安堵の表情といったところである。
 歯をご覧になれると、こういうときもいいですね。わたしは言う。相手のことわかりますものね。そうなんだよ育ちが出るんだよと歯医者が言う。歯の健康に気を遣うご家庭はきちんとしているから。外見にもかかわるし。そうですねとわたしも言う。付け焼き刃ができない部分の代表かも。育ちの良い女の子を探したかったらそういうところで最初の値踏みをしなくちゃね。

 値踏み、という語は意識的に使用した。わたしは「育ちの良さ」なんかおまえらの好きにやれよわたしゃ関係ねえよと思って生きていたからである。今でもそうだが、当時のほうがもっと強くそう思っていた。
 「育ちが良い」相手を選べば、親の経済的な水準が高い確率が上がる。とんでもない人間が親戚になる確率が下がる。良質な教育を受けている確率が上がる。情緒的に安定している確率が上がる。利用価値の高いコネクションを持っている確率が上がる。さまざまな人に好まれる相手である確率が上がり、ひいては自分の社会的評価に貢献する確率が上がる。だからそういう「育ちの良い」相手を選びたい。しかし見合いはいやで、偶然性が演出するロマンティックなラブもやりたい。だから値踏みする。
 結構なことである。わたしは近寄りたくもないが。

 わたしの歯の半分は作り物である。子どものころの環境がひどいと、十八の段階で口の中の健康はだいぶ害されている。多くの場合、大人になってから自分でお金を作って治療をする。わたしはそうした。歯がぼろぼろで生涯にわたってメンテナンスを要するのは、「虐待家庭出身者あるある」である。
 わたしが「育ちの良さ」について詳しいのは、何のことはない、自分のようでない者が「育ちが良い」とされることを、本を読んで知っていたからである。そういうことに詳しくなりたくて読んだのではない。闇雲に本を読むので、たいていのことは探さなくても出てくるのだ。
 わたしは「なるほど」と思い、そして、自分は育ちの良さが欲しかっただろうかと考え、それはない、と思った。恵まれた環境があるのは良いことだ。一方で自分は悲惨な環境(ほんとうに悲惨だった)を生き抜いたからこの人格になったので、それ以外の人格だったらもうそれはわたしではない。起きてしまったことでわたしはできている。「育ちのよいバージョンのわたし」などというものは存在しない。おまけに「育ちの良い女の子」を好きになるタイプの人間にも関心がない。だから関係がない。

 あれこれ思い出して、いやあ若かったねえ、と思う。そしてもう一度苦笑する。目の前の若い人に言う。アプリでも合コンでも、スペック競争のつらさはそんなに変わらないように思いますよ。母数がすごく多いから、その点はアプリのほうがたいへんだろうとは思うけど。アプリで会うとどんな感じなの?
 若い人はおもしろおかしくその話をする。わたしは楽しくそれを聞く。

女に甘い女

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのために三年ちかく会っていなかった古い友人から連絡があって、顔を合わせたら、年月では説明がつかないほど人相が変わっていた。どうしたのかと尋ねると、恋愛をしたと言うのだった。
 その話を簡潔にまとめると、結婚していて子どももいる上司の二番目の女みたいな立ち位置になり、その男から「押し切られて結婚し、みるみる醜くなった妻を愛せないが、子どものために耐えている」というようなことを言われ、「女磨き」をがんばって自分の部屋で男を待つ生活を二年続け、最終的に連絡先をブロックされた、という話だった。
 もちろん古い友人が直接そういう話をしたのではない。時間をかけて事実を確認したらそういうことだったのである。実際の話し方としては、「とても素敵な人から情熱的に愛を告白され運命的な恋に落ち大切にされていたが、どうしても一緒にいられない事情があり、お互い好きでたまらないのに彼がわたしの幸せのために身を引いてしまった」というようなものだった。
 わたしは怒り心頭に発し、何だその男まだ同じ会社にいるのか今からわたしが電話してやると息巻いて止められた。

 腹立ちがおさまらないので、別の友人に会ったときに子細を話し、「一緒にそのろくでもない男の悪口を言ってほしい」と頼んだ。すると友人は眉根を寄せてわたしを眺め、そんな陳腐な男に使う悪口はない、と言うのだった。よくある話じゃん。わたし二十代から何度もそういう話聞いてるわ。若いうちは相手が既婚じゃなかったりするけど、まあ同じよ。パターンよ。テンプレよ。
 わたしは驚いた。世の中ではありふれた話なのかもしれないけれど、身のまわりの人からそんなひどい話を聞いたことはなかったからだ。
 そりゃあね、と友人は言う。若いうちは相手が結婚してなくて、恋人がいることを隠して近づいて二番目三番目をゲットするパターンが多いから、引っかかったとしても、「世の中にはひどい人間がいるものだ」「そういう人間に引っかかってしまったのはなぜだろう」と思って、考えるよ。だから友だちに話すとしてもトーンがちがう。年とって引っかかったらなおのこと考えるから、友だちにも言わない人が多いでしょうよ。
 「自分たちは悲恋の運命のもとに出会ってしまった」という認識を持ち続けるケースは少ない。そこまでずれた認識を持ってきて「肯定してくれ」と言われても、わたしにはできない。それでね、はっきり言って、あんたが女をひたすらかわいそうがって男の悪口ばかり言いたがるのも、同じくらい認識がずれてるの。おかしいの。

 わたしは二度驚いた。だって悪いのはその男じゃないか。たしかにあの子には恋に恋する少女のようなところがあるけれど、だからといってそれが悪いというのは酷ではないか。純粋でひたむきなところを利用された被害者ではないか。
 わたしのそのせりふを聞いて友人は顎を下げ、わずかに口の端を上げた。それから言った。さっきの話のひどい男に対して「あの人は少年のような人だから」って言われたらあんたどう思う。
 わたしは即答した。幼稚な男が理屈に合わないことしてるだけだと思う。

 友人は右手で軽くトスの動作をしてみせる。
 そして言う。あんたは女に甘すぎる。とくにお気に入りの女に。ちょっと度を超えている。そういう女の話をするときのあんたは、それこそまったく理屈に合ってない。
 わたしはそんなことを言われたためしがなかったから、すぐに返答できなかった。お気に入りの女?

 友人は言う。
 思うんだけど、いわゆる男好き女好きというのとは別に、男という存在が好きな女と、女という存在が好きな女がいて、あんたは後者のだいぶ極端なやつなのよ。あんた自身が異性愛女性だとかそういうのはあんまり関係ない。いや関係あるのかもしれないけど、あと男とか女とかのカテゴリ自体への疑問をわたしあたりは持ってるんだけど、そういうのはまあ置いといてさ。女に甘い女なんだよ、あんたは。同じように男に甘い女もいる。その中でもあんたは極端。対象が男なら無遠慮に断罪するくせに、お気に入りの女はどこまでも庇う。お気に入りじゃなくても甘い。見知らぬ相手にもデフォルトで甘い。自覚ないなら気をつけなさいよ。そろそろ部下を持ったりするんだからね。公平にやんなさいよ、ほんとに。

 わたしはとりあえず言った。仕事のときに性別で差をつけたりなんかしないよ、わたしそういうの嫌いだもん。
 仕事以外では、と言おうと思ってことばが出なかった。仕事以外では不公平でもいいような気が、少しした。

人間でない男

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのために友人たちとの集まりも控えていたのだが、近ごろは「いくらなんでももういいだろう」という雰囲気である。疫病以来の帰省、疫病以来の再会、疫病以来の帰国といった話がよく耳に入る。
 そんなわけで疫病前は毎年会っていた高校の同級生たちと再会した。皆でお弁当を食べていた仲である。
 四十代になっても人生は変化するものらしく、転職したとか、子どもができたとか、彼氏ができたとか、近況報告だけでずいぶん盛り上がった。それが一段落して、娘さんは元気と訊かれた友人が持ち出したのが、ホストの話だった。自分の子どもの同級生がホストに入れあげていてたいそう驚いた、という話である。

 この友人はなにしろまっすぐな人間である。この世には正義があると思っているし、愛は素晴らしいと思っているし、人間同士はわかりあえると思っている。そんなだから、「十代の子どもがホストに行きたいという気持ちについて、同世代の娘の解説を受けてあれこれ考えたところ、そういうこともあるかもしれないと思った」などと言うのだった。
 誰かが「いや大人がその気持ちをわかると思ったらいけないでしょう」と言う。そうするとみんながホストの話をはじめる。「一度行ってみたい」とか「ぜんぜん興味ない」とか「行ってみたけどつまらなかった」とか、やいやい言う。
 行ったことないけどぜったいに行かない、とひとりが強く言う。みんなが彼女を見る。彼女は言う。
 わたしはベタな少女マンガみたいなロマンティックが好きなんだ、自分でわかってるんだ、お姫さま扱いされたらコロっと落ちる。ありふれた営業のせりふを聞いて「自分を見いだしてもらった」「特別な言葉をもらった」とうっとりする。そして定期預金を崩す。自分でわかってるんだ。だからぜったいホストなんか行かない。定期預金のために。

 わたしはびっくりした。わたしは生まれてこのかた、ベタな恋愛ものの少女マンガの主人公の気持ちがわからない。マンガのお話を面白く読みながらも「主人公はどうしてこんな男が好きなんだろうなあ」と思う。だって、そういう男って、基本いばってるじゃん。「おまえ」とか言うじゃん。言えばいいこと言わないみたいなコミュ障でもあるじゃん。壁ドンとかぜったい無理。
 でもそれは、マンガの中では「かっこいい」ということになっているのだった。現実ではそうでないのかといえば、そんなこともなく、たとえば客商売で似た様式が提供され、一部の女性に好評を博しているようなものでもあるのだ。

 だって、いばるのに、とわたしは言う。いばってお金取る人の何がいいの。

 彼女はわたしを見て笑う。あなたはピュアだねと言う。あのね、ここで言う「男」は、えっと、「女」でもいいんだけど、とにかく、そういう対象は、人ではないの。神さまとか妖精とか、そういうのなの。一部の人間にはきれいな人間のなりをした自分向けの上位存在を求める機能がインストールされているの。妖精にかどわかされたいの。神さまに見つけ出されたいの。美しいものに特別な価値を与えてほしいの。
 わたしの夫は人間ですよ。彼女は言う。人間だからかっこ悪いところもあるし、ていうか普通のおじさんだし、だからもちろんいばらないほうがいいし、皿を洗ってくれたほうがいい。ほつれたパジャマを着て口あけて寝ててもいい。でもね、そういうのはわたしにはロマンティックじゃない。ロマンティックを経由してそこに行けたらいちばんよかったんだろうけど、わたしにはそれは来なかった。
 来なかったことにいまだに未練があるから、お金めあてのつまらないテンプレートにでも引っかかる自信がある。そりゃあもう、頭がぼーっとしてふわーっとお金出しちゃう自信がある。だから行かないの。

 残りのみんなは「最近のホストにはさまざまな営業形態があるらしい」という話に移行していた。
 わたしはそれを片耳で聞きながら彼女の顔を見た。ピュアなのはわたしではなく、この人じゃないかしらと思った。恋愛沙汰やパートナーシップの相手が最初から人間でしかないわたしが見たことのない美しい神さまの夢を見て、いまだにそれをうしなっていない。
 わたしがそのように言うと、彼女は苦笑してこたえた。人間に人間じゃない役割を求めるなんて、ぜんぜんピュアじゃないよ。そのうえ定期預金のほうがずっと大事なんだから。

僕の目下の男

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それから三度目の冬が来て、僕はつくづく「目下の男」のありがたさを実感しているところである。

 「目下の男」というのは、僕が特別仲良くしている同性の友人を指す。僕の以前の彼女がつけた名前で、わりと気に入っている。単にいちばん仲が良い友だちというだけでないニュアンスがあるんだけど、うまく言えない。
 僕には同性愛の経験はない。「女の子と恋愛をしたことがある。でも男女両方が色恋の対象になる可能性をナシだと決める理由はない」と思って素敵だなと思ったゲイの男性とデートしたことはあって、でも女の子みたいに好きになることはないなと感じた。たまたまその人と恋に落ちなかっただけかもしれないけれど、まあともかく、今現在までの僕は異性愛者男性ということになるんだろう。
 「目下の男」も恋愛の対象ではない。性欲とか独占欲とか、身体が近しい感じとか、甘えたい感じとか、自分が相手にとって最優先であってほしい感じとか、そういうのがない。
 それでも「目下の男」は他の友だちとは違う特別な相手だ。よく「きょうだいみたいだね」と言われる。でも本物のきょうだいよりよく会うし、よく話す。そしてそれが当然だと感じる。ちょっとした頼みごとをよくするし、される。ちょっとしてない頼みごとも必要になったらすると思う。相手の役に立ちたい気持ちと頼りにしたい気持ちが強くある。そいつの前で僕は油断していて、リラックスしていて、でもときどき格好つけたくなる。僕はそいつと仲良くなることに苦労しないし、そいつも出会ってすぐのころから僕を特別扱いする。
 それが僕の「目下の男」である。
 「目下の」がつくのは、僕の人生にはしばしばそういう男がいて、そして季節が変わるように相手も変わるからである。永遠の存在ではない。だから「目下」。

 保育園のときからすでにそういう相手がいた。小学校に入ってすぐ交代して、その子と五年生くらいまで続いて、六年生は少し孤独、中一から中三にはまた別の同級生と仲が良く、高校一年から二年まではすごく孤独だった。高三で出会って大学を出るまで仲が良かったのは予備校で出会った男である。
 「目下の男」がいないとき、僕はとてもさみしい。彼女がいないときより、ずっとさみしい。彼女はいたら楽しいけど、いなくてもわりと楽しくて、どうかすると何年も平気で彼女なしで過ごしたりする。でも特別に仲の良い同性の友だちはいつもいてほしい。
 そういうのってみんなにはないんだろうか。

 僕は同世代の男の集団がちょっと苦手だ。同じ集団でもいろんな人がいればOKで、女の子とか外国人とか、十歳以上年が離れた人とか、そういう別の属性を持つ誰かがいたほうがラクにおしゃべりできる。
 競争は嫌いではない。職場で業績を争うのとかは得意なほうだ。でも同性代の男同士の、くるくる移り変わる微妙な力関係みたいなのをうまく乗りこなせない。その中でえらそうな顔してるやつを好きになれたためしがない。
 そんな人間を見つけて良くしてくれるのが、たぶん僕の「目下の男」なのである。
 僕の「目下の男」たちはみんないいやつで、勉強や仕事ができて、顔かたちも整っていて、同世代の男たちからも好かれるほうなんだけど、でもきっとどこかで集団に飽き足らなくて、一対一の友情を必要としていて、それで僕を選んでくれるんじゃないかと思う。

 現在の「目下の男」とは、就職のために東京に出てきてすぐ、趣味仲間の紹介で知り合った。お互い海外旅行が好きなんだけど、疫病のために行きにくくなったので、腹いせのように互いの家によく行き、隙を見て国内旅行をした。
 このたびそいつが疫病流行以来初の海外旅行を敢行する。そうして、現地で今の彼女にプロポーズするのだそうである。めでたいことだ。彼女もとてもいい人で、二人の結婚が楽しみである。
 楽しみなのだが、結婚しても僕と遊んでくれるだろうか。

 僕はそれがちょっと心配である。ライフステージが変わると友情も変化するというからねえ。僕もう全然、料理とか子守とか得意だし、だから彼らに子どもができて忙しくなったらサポート部隊として名乗りを上げるつもりだし、きっと役に立てると思うんだけど。

 でももしかすると疎遠になってしまうのかもしれない。特別でない、たまに行き来するだけの、普通の友だちになるのかもしれない。それはそれでしかたのないことだ。何しろ彼は「目下の」男なのだから。