傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

メサイアの引退

 ちかごろはかわいそうな女の子の話はないの。尋ねると彼は視線を少し天井に向け、それを皿の上に落とし、軽く揚げた岩牡蠣を切断しながらこたえる。ないねえ。珍しいと私はつぶやく。この人はまだ半ば少年であるような年齢のころから断続的にそのような相手と恋をしていたのだ。おとなしくてかわいそうなのではだめで、自分をかわいそうな存在にしたものを憎み牙を剥いているような人が好きなのだった。そのうちもっとも長かった相手が私の友だちで、私はほかに共通の友人がいないふたりにとってのある種の記録係として重宝されていた。
 そうはいっても私の知っている彼らの側面はほんの少しずつだ。恋をしたふたりはしばしば観客を必要とする。そして観客に見せるのはよく整えた部分の、しかも一側面にかぎる。そういうものだ。彼らの恋は非常に激しかったから、観客である私はまったく退屈しなかった。彼女が死ぬんじゃないかと心配はしたけれども、でも恋なんかしなくったって彼女は死にそうだったのだ。みじめで脆弱で凶暴だった、私の友だち。今はもう丸太みたいに安定してへらへら笑って幸せそうだ。ほんとうによかったと思う。そうして、誰にも言わないけれども、私はそのことが、少しつまらない。若くて死にそうで不安定で美しかった友だちを惜しむ気持ちがひとつまみ、私のなかにある。
 あのころが僕の色恋的な全盛期ですよと彼は言った。その後は小型化する一方。近ごろはもうない。そのようにして僕らは年をとり、死ぬ。私はふむふむとうなずきながらほんとうは口の中にあるけだものの肉の感触にばかり集中している。彼は少しばかり昔話をしてたのしそうに笑い、もうああいう派手なことは起きない、と言う。僕の愛情ってぜんぶ自己愛だからね、実のところ。
 私は彼を見る。とてもいい笑顔だと思う。そのような笑顔で身も蓋もない真実を述べてはいけないと思う。一人称に載せて私の見知った愛のすべてに関する真実をあからさまにするのはいけないと思う。私たちの愛は、他者に自分を映すことから開始される。苦しんでいた自分、かくありたかった自分、部分的に誇張された自分、何かを取り除いた自分、そういうものを、私たちは愛する。相手の傷を通して過去の自分の傷をさかのぼって手当てする。手に入らなかった自分を実現する。自分の中のなにかをなかったことにする。そのような対象とふたりきりで閉じこもり境界をあやうくする行為を社会は恋と呼び推奨しているのだから考えてみればおそろしい話だねえと私は思う。
 あなたはかつてかわいそうだった自分を助けてあげるのにじゅうぶんなだけ人を助けてあげて、だから、かわいそうな女の子が必要じゃなくなったのかなあ。私が尋ねると彼は首を横に振って口をひらく。僕は誰も助けてなんかいない。彼女だって勝手に元気になったんだ。それはそれとして、誰かに強くはたらきかけることがなくなったのは単純に年齢のせいだと思う。もう寝ないで仕事とか恋愛とか無理だ。僕は僕がぐっとくる相手にいろんなことをするエネルギーをもう持っていないし、かといって丸太みたいに安定して手間のかからない女がごろんと寝てたってなんとも思わない。それはただの丸太だ。マキノは昔から丸太で彼女は比較的最近丸太になったんだろうけど、そんなのはたいしたちがいじゃない。僕と関係のない、てのひらを差しこむ傷口のあいていない女たちだということ。
 彼は機嫌のいい口調でそのように話し、話しながら手元に置かれたアイスクリームをスプーンですくって私に差しだした。私はちょっと身を乗りだしてそれをくわえた。頭が痺れるほど甘くて目に染みだすようなアーモンドの香りのあるお酒がかかっていた。私の好きなものだ。
 この人は相手に多少の好意があれば反射的に世話を焼いてしまうのだから、その対象がないのはよくないことなんだと私は思った。小鳥の世話でもさせてやりたいと思った。先を丸くした細い竹のへらに擂り餌を載せてくちばしの奥まで入れたりすればいいのにと思った。けれども彼は世話をしなくては死ぬようなものを飼うだけの余暇を持っていない。だから私は別の話をする。
 あのね、きっともうすぐ、昔の彼女ほど手数がかからなくって、それでもってあなたの好みの人があらわれる、あなたの知らないところから、突然、嵐のように、そしてあなたを好きになる、あなたもその人を好きになる、今までとはまったくちがったシステムで。だからね、楽しみにしているといいよ。彼はひっそりとほほえむ。いい話、と言う。彼にかぎらず誰に対しても、私のできることは、ただ話を聞くこと、それから、おはなしを作ることだけだ。