傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

ちゃんとしているとはどのようなことか

 わたし、ちゃんとしてないのが恥ずかしくてさあ。
 友人が言う。わたしはとても驚く。
 この友人はわたしと同じ芸術の大学を出て新卒で正社員になり、三十代の現在は立派な中間管理職であって、そのうえ作家としての活動も続けていて(いわゆる美術家である)、そちらでもそれなりに評価されている。
 とてもちゃんとしていると思う。
 一方、わたしは人生で一度も正社員になったことがない。両親から生前相続した小さな二階建ての維持管理費と食い扶持程度をピアノ教師として稼ぎ、伴奏やイベント演奏のアルバイトのときだけ「ピアニスト」と呼ばれ、あとは語学教師をやっている。この語学教師業務は、友人たちから「留学中に得た技能をカスまで使う」という意味で「グラッパ」と呼ばれている。カスまで使わないとささやかな贅沢もままならぬ、地味な非正規労働者である。
 そうして、二階建ての一軒家を一人で所有しているのをいいことに、ときどき人を拾って住まわせている。その全員に対して「いついなくなってもおかしくない存在」「自分がいやになったら出ていってもらう存在」という認識でいたし、今でもそう思っている。親族としては両親と兄がいるが、いずれとも離れて暮らしていて、家族は元野犬の犬一頭のみである。
 いわゆる「ちゃんとした生活」ではないように思う。
 属性はさておいても、成人してから朝10時より前に起床したためしがない。朝に出かける用事があるときは徹夜する。食べたいものを食べ、食べたくないときは何も食べない。そこいらの小学生より生活習慣がダメである(そのためかずっと低体重である)。
 生きていると髪が伸びるので、結うのが面倒になるとしょうことなしに美容院に行く。公共の場に出るのでなければ下着なんかつけない。いまだもってブラジャーというものの意義がわかっていない。のみならず服全般がうっすら嫌いである。なんでいろんな布くっつけなきゃいけないんだと思う。コーヒー豆とかが入っている麻袋に穴をあけて首と腕を出してかぶって、それで済ませたい。暑くなったら最寄りの公園の水道で水浴びしたい。それを実行していない自分はほんとうにがんばっていると思う。
 わたしはわたしの体質と気質に適合した人生を構築したので、それを恥じるつもりはない。ないが、それはそれとして、世間で言われる「ちゃんとした人」ではないと思う。昔の同級生からは「奔放なバイの芸術家」とされていた。要するに「まともじゃない」という意味だ。

 だって、家がちゃんとしてるよ。人を呼べる家で、いつ来てもきれい。
 友人はそのように言う。わたしはこの人が大物を制作するとき家の一階を貸している。
 きれいな家ではない。
 一階は元工場で、改装して半分を広い土間にしてピアノを置いてある。残り半分は(よく言えば)リビングダイニングだが、犬の居住空間でもあるので、換毛期は毛まみれルームである。二階の自室もたいして片付いてはいない。散らかっていないのは単にものが少ないからである。使っていないものはぜんぶ捨てたい性質なのだ。わたしには居心地が良いが、どことなく殺伐とした家である。
 いいえ、片付いています。一軒家を維持できるなんて、ほんとうにちゃんとしている。
 友人が首を振りながら言う。わたし、どれほど決意しても、あっというまに散らかしちゃうの。それも家族のものがあるとかじゃない、自分ひとりのものしか置いてない、1LDKしかないおうちが、だよ。ほんとうに恥ずかしい。

 なるほど、この友人にとって「ちゃんとしている」というのは部屋が散らかっていないということなのだ。
 そんなの気にすることないのにな、と思う。この人は、朝起きて夜寝て、決まった時間にまともな食事をとり、わたしみたいにどこの馬の骨ともわからぬ人間や野良犬を拾ってきたりせず、いつ会っても今ふうに身ぎれいで、どこへ行っても適切な振る舞いをして、人に言えば「いいところですね」と言われる会社に長く勤めて、ニーサ? とかそういうのもやっている。
 そんな人の部屋が散らかっていたって、「キュートな弱点」くらいのものじゃないかと思う。

 人間は自分が弱点だと思っていることを必要以上に気にして「ちゃんとしていない」と言うのだろうなと思う。
 ということはわたしは「奔放なバイの芸術家」として珍獣のように扱われることを気にしているのだろうか?
 別に奔放じゃないし、芸術家でもないし。そのとき好きだと思った人と一緒にいて自分にできる仕事をしているだけだし。
 そう思う。でもどこか遠くから「ちゃんとしてない」という声が聞こえる。