傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

薄暗い親たちの薄暗い心配

  疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。小学生の娘も一時期、分散登校になった。今はフルで通学可能である。それでも子どもたちの活動は制限されているし、週末も遠出がしにくい。よほど仲の良い子でないとたがいの家の行き来にも遠慮してしまう。来た子にも「晩御飯たべていく?」というわけにはいかない。
 それでわたしは、とくになにもない時間を娘と一緒に過ごすことが増えた。そうするとつくづく、娘は自分と似ていないと思うのである。
 娘は小学五年生、社交的でスポーツが好きだ。興が乗るとアイドルの真似をしてダンスしてみせるのだけれど、これが驚くほどうまい。お友だちと踊っている姿はかわいい。子どもながらにファッションの好みが出てきて、あれこれコーディネートを工夫している。担任の先生によればクラスでもよくリーダーシップをとり、いろんな子と仲良しだということで、学校での集団生活によく適応しているようだ。

 いいことだ。
 いいことなのだが、その娘の親であるところのわたしと夫は社交的ではない。暇さえあれば本を読んでいる。夫婦の馴れ初めは哲学書の読書会だ。よく晴れた日曜日に地下の店でねちねちとハンナ・アーレントを読む者同士として出会った。死について考えるために哲学書を読み、かつ大勢の友だちとバーベキューやフットサルをやるような人間もなかにはいるが(いるのだ。わたしの数少ない友人のひとりである)、わたしたち夫婦はそうではない。魂の諸側面がいずれも薄暗い。バーベキュー・フットサル要素なしの人生をふたつ、日陰にごろりと並べたもの。それがわたしたち夫婦の、子ができるまでの様態であった。
 そこにあらわれたのが娘である。最初は赤ちゃんだったので親に似ていないことはわからなかったのだが、成長するにしたがって徐々にその性質があきらかになった。
 娘はろくに本を読まない。両親が夜ごと湿ったほほえみを浮かべ猫背で本を読んでいる横でゲームをやっている。それも友だちとおしゃべりしながらやっている。わたしもたまにゲームをするが、友だちとなんかやったことがない。ひとりでゾンビを殺しまくるゲームとかをやる。
 わたしと夫と娘の共通の趣味はマンガだけである。そのマンガの読み方もどうやら娘とわたしではだいぶちがう。娘の感想を聞くと、さまざまなキャラクターの関係性を見ていて、その力学を楽しんでいる。バトルものではチームプレイや連携の描写があるものが好きだ。ストレートに格好良いキャラクターが好きだし、率直に正義の側に自分を置いている。
 小学五年生だからだろうかと尋ねると夫は首を横に振り、いやおれは小学校中学年ですでに暗いことを考えていた、と言った。あの子はきっとそういう人間なんだ。
 そして夫はさびしそうに笑い、言った。あの子は太陽みたいな子で、大勢の友だちにかこまれた人生を送るんだ。素敵なことだよ。うん。

 いいじゃん、と友人は言う。めっちゃいいじゃん。何が心配なの。
 わたしは陰鬱な声で言う。あの子はうちの居心地が悪くないだろうかと思うんだよ。今はまだ幼いから会話もあるけど、本格的に思春期がはじまったら、わたしも夫も「無理解な親」になるんじゃないかと思う。わたしは思春期のころ、わたしの好きなものを親にちいとも理解してもらえなくて、そりゃあ悲しかったものですよ。自分はそうなりたくなかった。でもわたしと娘の好みはあきらかにちがう。娘にはわかりやすい屈折はなさそうだけど、そういう子にも思春期の悩みはきっと発生する、それに対してわたしは役に立てないんじゃないかなあ。
 なるほど、と友人は言う。それから言う。あのさあ、娘さんに屈託がないのは、生まれ持った気質もあるんだろうけど、あなたがた保護者がいろんな経験をさせてあげて、よく褒めて、自分たちと違うところを否定したりせず、安心な環境で育てたからじゃないかと思うんだ。保護して保護される関係において、交友関係のスタイルやコンテンツに対する好みなんてたいした問題じゃないと思う。

 そうだったらいいけど、とわたしは言う。わたしの娘、わたしの小さい娘。ほんとうはもう小さくないと知っているのに、あと何年家にいるかわからない年齢になったのに、いつまでもずっと頼られたくて、なんでもわかってあげたいと思ってしまう。娘とわたしはあきらかに別の人間で、ほとんど共通点がないと言っていいくらいなのに。