傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

友だちがいない

 自宅で映画を観る。
 映画のディスクは来客が持ってきたものである。この人は昔からとにかく映画が好きで、ときどき気分転換をするために、わたしがひとりで過ごす夜をねらってやってくるのである。映画は国籍も主題もばらばらだが、とにかく孤独な人が出てくる。
 わたしたちはそのような登場人物を、なぜだかひどく理解できる。登場人物は、たとえば住宅地で便利屋をやっているアメリカ人であったり、財閥を率いる大富豪のフランス人であったり、韓国の地方都市にわけありげに赴任してきた刑事であったりする。年齢も性別も性格もばらばらだ。しかし彼らには共通のさみしさの芯のようなものがあり、どうやっても拭えないある種のみじめさがある。それがわたしたちの身体に呼応する。そのようにしてわたしたちはしみじみとそれらの映画を鑑賞する。
 友だちがいないんだ、と彼女は言った。ほんとうに孤独なんだ。わたしにはよくわかる。あなたにもわかるでしょう。

 わたしは返答に困った。
 ときどき長く私的な会話をし、相手が自分にひどいことをしないという前提を共有して、血縁関係や性的関係になく、自宅に呼んだり呼ばれたりして一緒に映画を観る相手は、はたから見たら、たぶん友だちだと思う。だからここでは彼女を友人と呼ぶとして、この友人はわたしに「この映画の主人公には友だちがいないんだ、その非常な孤独がわたしにはわかるんだ、あなたにもわかるでしょう」と共感をこめて話しているのである。ちょっとそれは、なんていうか、矛盾してないですか。
 もちろん友だちというのは社会的な文脈で必要とされる便宜的なラベルである。あるいは一方的な妄想である。片方だけが友だちだと思っていることなんてざらにあるだろう。DNA鑑定が可能な血縁ある親子や戸籍謄本を見れば書いてある法律上の結婚相手とは違う。SNS上のフォローフォロアー関係が示すフレンドとも違う。だから彼女が「友だちがいない」というのは、まあそうなんだろうと思う。いないと思ったらいない、それが友だちである。

 わたしにとって、この友人が持ってくる映画に出てくる孤独な登場人物たちは、わりと友だちである。わたしはそもそも幼少期に心を通わせた(と感じた)多くの「人物」がフィクションの人物やそれを書いた作家(これはもちろんその筆名を持つ生身の人物という意味ではない)であって、そういう相手を友だちだと思っていた(かわいそうですね)。何なら、一緒に登校して外を駆けまわりゲームをやっていた同級生たちより「友だち」だった。
 かくも友だちとは妄想の産物である。
 いま流れている映画の登場人物には、相談に乗ってくれる相手だとか、いまだにあたたかい感情を持ってくれていそうな昔の恋人だとか、生活ぶりを心配してくれる相手なんかがいる。それでも彼は孤独なのだ。友だちがいないのだ。誰もいないのだ。あたりを見渡しても茫漠とした山野があるばかりなのだ。
 わたしにはそれがわかる。この映画を持ってきた友人にももちろんわかる。わたしたちはその孤独の感覚を共有している。

 しかしそれは明らかに矛盾した感覚である。そんなに「わかってくれる」相手なら、友だちと名づければいいのである。というか、さっきのわたしに対して今のわたしがそう思う。そもそも、友人やわたしの生活場面だけを取り上げたって、よく集まる昔の同級生がいて飲みに行く同僚がいてそのほかのあちこちで知り合って定期的に会って話したり食事をしたり一緒に旅行したりする相手がいて、家の中にはだいたい家族がうろうろしていて、何が孤独だという話ではある。そんな条件いっこだって満たしていたら孤独じゃないのじゃないか。山の中で一人で暮らしている人にしてみたら「何を言っているんだ」という感じだろう(まったくの余談ですが、この「山の中で一人で暮らしている人」は仮定の存在ではなく、そういう生活をブログに書いている人で、わたしはその人のファンである)。
 映画の登場人物にしたって、「いやそれは友だちでは?」という相手が出てくる。
 二重三重に矛盾している。

 それでもわたしたちには友だちがいないのだ。ひとりきりで世界から切り離され、引きずる影さえどこかでなくして、誰かを見つけた気がしてもそれはただの気のせいで、「そうだよな」と思うのだ。こんなところに誰もいるわけないよな。何かの見間違いだったんだ。

 わかるよ、とわたしは言う。友だちがいないんだ。