傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

関係は減衰する

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。家族のほかは届け出をした相手にしか対面で会うことができない。とんだ国家だが、ここよりほかの場所に行くための許諾はしばらく下りそうにない。

 他人とのかかわりを減ったことを嘆く声がたくさんある。わたしが(オンラインで)口をきく相手もそのようなことを言う。そう、とわたしは言う。わたしは、実は、そのことについては、あんまりつらくない。わたしはひとり旅を愛し、友人は少なく、職場のつきあいにも熱心ではなく、都心といえる場所の賃貸マンションに独居して地域社会に属していない。ずっとそうだった。だから疫病の流行後もわりと平気である。何週間も誰とも口をきかなくても問題を感じないたちなのだ。年末年始の旅行などは人と口をきかずに知らない場所をほっつき歩くためにしているようなものである。

 勤務先では、リモートワーク中の社員の心が暗くならないようにというはからいで、週に二回ばかり「リモート雑談」の時間がもうけられているのだけれど、それだって正直言ってべつにいらない。てきとうに参加して楽しんでいるふりをしているが、そんなのは対面でも同じことである。組織においては「あなたがたを私的な感情の面でも必要としてますよ」という顔をすると仕事がしやすい。だから芝居をしている。それだけである。

 わたしのそれほど多くない友人たちは屈託なくインターネット上のツールを使っておしゃべりを楽しんでいる。わたしもそれに誘ってもらって話している。私的な会話はそれで足りるようにも感じている。

 しかしながら、よくよく考えたらこの状態はどうしたって長引くのである。なんならこの状態を平常とする世界が生まれるかもしれない。そうなるとだいいちに旅ができないことに絶望する。わたしは基本的に悲観的なので、最悪の事態を想定する。公共交通機関の本数はすでに減少しているが、乗るために許可証が必要になったらどうしよう。ありうる。現在の状況をかんがみるに、まったくもってありうる。そしてそうなったら高速道路も閉鎖されるだろう。わたしは自家用車を持たない。レンタカー屋の人から誰何されながら冷や汗をかいて身分証明書ともっともらしい理由を並べて車を借りたりするのだろうか。

 しかし、それでもどうにかなる。わたしはそう思う。散歩は禁じられていないので、最悪でも歩いて行ける場所のすべてに行けば、十年くらい精神の均衡を保てる。道はたくさんある。靴を通信販売で買うことだけが不安である。友人にそう言うと旅行好きの考えることは極端だと言われた。旅行好きというか、放浪癖だと思う。

 かくしてわたしはこのように孤独になりがちな世界でも精神の健康を保つことに自信がある。あるのだが、一点、問題が残されていることに気づいた。人間関係には寿命があるという事実である。

 わたしの数少ない友人たちの中には、古い者もいれば新しい者もいる。私的で利害関係をともなわない親密な関係には寿命がある。季節がある。ある者は三ヶ月で、ある者は三年で、別の者は十年で、「もういいかな」と思う。そういうものである。もしも友人としての寿命がとても長かったとしても、生物として死ぬ。わたしは丈夫なので同世代の友人の誰よりも長生きすると思う。そうなると完全に孤独になる。親は両方ともすでに死んでいるし(わりと早かった)、きょうだいはいない。親戚とかそういうのにも興味がないままで生きてきた。

 完全な孤独について、わたしは考える。それはちょっと無理かもわからない、と思う。そう、わたしは非社交的であるわりに「人間関係は減衰する」という真実を知っていて、それをおそれていた。それでもって要所要所で新しい友人をつくってきた。なんというか、自分が親密になるべき相手が、こう、人混みのなかで(比喩的に)光って見えるのだ。そしてそういう相手を食事に誘うとだいたいついてくる。だから親しい相手を作るのに困ったことがない。要領が良いのである。

 しかし、今は人を食事に誘うことはできない。人混みに出ることさえできない。わたしは数少ない友人にそのことを話す。すると彼女は言う。インターネットでしょ、そこは。

 わたしはインターネットを検索する。オンライン読書会というのを見つける。わたしは目をこらす。もしかするとこれかもわからない、と思う。わたしはわたしの欲する関係を、どうにか見つけなければならない。すべての親密な関係には季節があり、寿命があり、放っておいたらわたしが口をききたい相手は誰もいなくなるのだから。