傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

彼女は私をゴミみたく捨てる

 人間が精神的に乱れるのは思春期にかぎったことではない。人生の中で何度か起こりうる。そのときはできるだけいろんなリソースを使って立ち直るのがよいと私は思っている。だから昔の友人知人が連絡してきて不安定なようすであった場合、できるかぎり力になろうと思っている。

 私だっていつ失職したり病気になったり災害に遭ったりするかわからないのだし、そうしたらきっと精神がだめな感じになるだろうし、そのときはまわりの人がきっと助けてくれるだろうから、そのぶん自分が健康なときには人を助けておきたいと、そういうふうに思うのである。人間の精神はそんなに丈夫ではない。だめになるときはなる。だめになるかならないかは持ち回りみたいなもので、いま私の精神がそこそこ健康に機能しているのは「たまたま」である。

 彼女から連絡が来たのは三ヶ月ほど前のことだった。十年ぶりの連絡だった。彼女と私は学生時代の英語のクラスが一緒で、在学中はけっこう仲良くしていた。ほがらかで英語の発音がよくて身ぎれいな女の子だった。在学中からつきあっていた彼氏と結婚して、私は二次会にだけ呼ばれて行って、お祝いをしてきた。そのあと子どもが生まれたと聞いて何人かで贈り物をした。それがだいたい十年くらい前のことである。

 彼女が通話をしたいというので通話アプリのIDを送った。そうしたら何度も通話がかかってくるようになった。彼女は家庭に深刻な問題を抱えていた。最初は結婚相手の問題かと思ったが、どうもそうではなく、次には子どもの発育上の問題かとも思ったが、それもどうも本質ではなく、幾晩かの長電話ののちになんとなく察したのは彼女と彼女の実母の間に根深い問題があるらしいということだった。

 私は適切と思われる専門機関を調べ、リストを作り、当座の費用を概算し、彼女が居住している自治体から受けられそうな支援について資料を集めた。そしてそれを送った。実のところ、そういう作業ははじめてではなかった。私には少なからぬ友人がいて、そしてそのうちの何人かは人生のある時期に専門的な支援を必要とする状況に陥った。だから私は慣れていた。「これで彼女は少しラクになるだろう」と思っていた。ほかの友人たちはみんなそうだったから。

 でも彼女は私の家を訪ねてきた。どうやって私の今の住所を知ったのかはわからない。十数年ぶりに顔を見る彼女は奇妙に若いままで、もしかすると若いころよりきれいで、目を爛々と輝かせていた。なんというか、引力があった。彼女は通話アプリで私が打ち切った話を続けようとした。

 彼女は私が他の友人や第三者機関の話をすると「聞きたくない」と言った。彼女は私と二人きりで話をしたがっていた。私はそのことに気づいていないのではなかった。しかし私はそれに乗らなかった。精神の具合が悪いときに閉じた二者関係を形成するとろくなことにならないと私は思っているからだ。それに、ごく率直に言って、私は彼女の特別な相手ではないし、特別な相手になるつもりもないからだ。

 私は話し続ける彼女を遮り、専門機関へのアクセスを勧めた。頑として自宅には入れなかった。彼女は燃えるような目で私を見た。その目から一瞬で温度がうしなわれた。彼女はふいと背を向けて、そのまま帰った。

 それ以来連絡がない。そのことを共通の友人に伝えると、友人は言った。そりゃ、あんた、彼女に「見限られた」んだよ。あのね、ある種の人間は、二人きりの関係に閉じこもって相手を操作する術に長けているんだよ。そしてそれを使っていろんな人間を使い捨てて生きている。でもあんたは「使えなかった」。おすすめのカウンセリング機関? 行政から受けられる支援の情報? ばかばかしい。彼女はそんなものひとつも必要としていない。彼女が欲しいのはただ自分のために心を砕き、自分の激しい感情を無償で受け取り、自分が「死ぬ」と言ったらパニックに陥るような、そういう相手だよ。

 いいかい、そういう相手は、何も色恋沙汰をやらなくたって手に入る。彼女のような人間はそれを知っている。ご近所さんだろうが昔の同級生だろうが、その心を奪うすべを知っている。でも自分の人間操作術が万能じゃないことも知っている。だから彼女のような人間は、何度か操作を試みて、使えないとわかったら捨てるんだよ、あのね、彼女はたぶんもう、あんたに一ミリも関心ないよ。

 私はしばらく返事ができなかった。私は彼女に親切にしたつもりだった。でも彼女にはそんなものぜんぜん必要なかったのだ。そして彼女は私を「捨てた」のだ。ゴミみたいに。