傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

たんぱく質と平和と成熟

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。当初は自宅以外でのほとんどすべての室内活動がしにくかったけれど、しばらくするとジムは開くようになった。そうするとヒマだから運動しようという気にもなる。わたしはリモートワークというのはとてもいいものだと思っているけれど、通勤がないと運動不足になることもまた事実であり、中年の運動不足は短期間で身体を変えてしまう。

 そんなわけでわたしは一年ほどジムに通った。最初は週に一度行けばよしとしていたが、週に二回が定着し、近ごろは三回のこともある。割高だが自宅から徒歩五分で二十四時間営業しているジムにしたのがよかったのだと思う。逃げ場がない。めんどくさいなーと思っても、往復の交通時間を入れて四十分で終わるのだし、シャワーは家で浴びればいいので、「風呂の前にジム行っとくか」と思う。
 ジムそのものはべつに楽しくはない。わたしが契約しているジムには素敵なスタジオプログラムとかはない。プールやジャグジーもない。社交の場でもない。そこにはただ筋トレとランのマシンがあり、近所の(ややマッチョ傾向の)人々が単独でやってきて、黙々とマシンを使い、粛々とそれを消毒して、帰る。そういう場所である。
 しかし、継続して通って少しずつ筋力がつくと、身体の快適さに気づく。最初の一ヶ月で肩こりが緩和される。半年もすると立ち仕事が楽に感じられる。服がゆるくなってなんとなくしゅっとする。睡眠が深くなる。ごはんもおいしい。
 そうしてわたしは健康に味をしめた。あとから気持ちよくなるとわかっていると人間はそれをやるのである。

 味をしめるものが健康というあたりがほんとうに中年、とわたしは言う。しかもスケールが小さい。
 いいじゃんと友人は言う。巨額の横領に味を占めるとかよりは。そうだけど、とわたしは言う。年とったからって誰もが職場で犯罪やハラスメントをやれるだけの権力を持つわけじゃないもん。やりたいわけじゃないけど、そもそもやれる立場にないの。そこそこ長く生きてきて味をしめるものが健康くらいしかない。
 それはそれでひとつの人生の成果だよ。友人はそのように言う。筋トレ部位のローテーションだの食事に占めるたんぱく質の量だのに関心を持てるのは、あなたが平和な生活をしているからで、それはあなたが成熟の過程で獲得した成果なんだ。経済的な話だけじゃくてさ、精神状態がたいへんなら「筋トレをやって肩こりがなおってよかったなあ」なんて思えないし、激務だったらおいしい鶏胸肉料理をあれこれ試すなんてできない。それができる状況を作ったのは立派なことなんだ。よかったね。
 そうかな、とわたしは言う。そうとも、と友人は言う。そして、年とったら落ち着くなんて嘘だよ、と言う。

 落ち着くのは年を取ったからじゃなくて、落ち着くように人生を構築してきたからだよ。健康なんてどうでもいいからいい仕事をしたいという方針のまま四十ちょっとでからだ壊した人、わたしのまわりにもすでにいる。
 あとはそうだねえ、とにかく痩せていなくてはいけないと信じて極端な食生活する人もいる。この年齢でそんなことしたら骨はすかすか肌はがさがさ、寿命が何年縮むやら。でもやるんだよね、痩せでないのは「負け」だと思っているんだってさ。
 仕事や容姿が何より大切でそれを追求しつづけるっていうのは、まあいいんだ、好きにしたらいい。それがいい仕事とか容姿であるかは、わたしが決めることじゃない。彼らが決めたらいい。でもわたし個人としては、あれこれのやりがいや幸福を育てながらジム行ってたんぱく質を気にするくらいの人を好きだよ。
 なぜかといえば「仕事に文字通り命をかけている」「痩せのためなら健康を害してもかまわない」みたいな精神を好きじゃないから。
 そういう人って、何かから逃れるために、なんかこう、世間で良いとされているものを選んで、それにしがみついて、自分自身から逃げているように見える。だからわたしはそういう人が好きじゃない。もちろん「仕事も容姿も家庭も趣味も完璧に」とかそういう話じゃない。それはもっとたちが悪い。完璧とか上等とか勝ちとか、そういうのがあると信じていて、それに注力することが自分の生命より大切だと思っている状態がわたしはいやなんだ。

 そうかしら、とわたしは思う。世間でよしとされているものをとことんまで追求する、それもなかなかたいへんなことだ。がんばっててえらいねと思う。わたしはそんなにがんばれないもんなあ。