傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

泥団子をこねろ あるいは反「言語化ありがとうございます!」

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。異常と思われた状況も三年目、すでに日常である。この間、わたしの趣味用のSNSアカウントにいささかのフォロアーと肯定的なリプライがつくようになった。
 趣味のドラマと映画とアートについてぶつぶつ言うだけのアカウントだ。口調というか文体を芸にしているのではないし、ジョークを言うのでもない。わたし自身が有名人というわけではないし、なにか珍しい属性を持っているのでもない(そのアカウントでは「三十そこそこの女なんだろうな」と思われる程度の情報しか出していない)。
 そういうものに少々の人気が出るのは意外だった。もしかしてお小遣いになるんじゃないかしらと思って知り合いに相談したけれど、「あとフォロアー数十倍ないとカネにはならない」と言われた。その程度の数字である。しかし、その程度を獲得するような内容でもないので驚いた。みんな疫病下でヒマなのではないかと思った。

 知人はそれを「あんたは言い切るからだ」と説明した。
 自分の感想とか意見であっても、条件も留保もなく言い切る人は少ない。そしてみんな断定が好きだ。すごく好きだ。それにあんたが扱っているコンテンツにはほどほどに人気のあるものがまじっていて、だから便利なんだと思う。あんたの感想を切り貼りしして「この作品に対する自分の感想」に加工するのに適した素材なんだよ。

 なるほど、とわたしは思った。感想や意見なんだからやたらとあいまいにするほうが変だと思っていたのだが、そのわたしのほうが変(少数派)であるようだった。
 しばらく気にせず好き勝手言っていたのだが、そのうち一部のリプライが煩わしくなった。わたしはリプライに返信しない。しかし見るのも不愉快になってしまった。
 誹謗中傷が、ではない。褒めているものの一部がである。そこにはたいていこのような文言が書かれている。「それが言いたかったんです!」「言語化ありがとうございます!」。

 最初は「頼まれて書いたのではないものを、まるで注文品を出したように言われて、それが不愉快なのかな?」と思った。でもわたしは彼ら(どういう人たちかは知らないけどわたしが言及する作品の傾向から推測するに女性が多い。わたしは「彼ら」を「they」として使う)のそのような傾向について、さほど気にしたことはなかった。
 しかしこのたびはほんとうに不愉快なのだ。何が不愉快なのか。

 わからないまま忘れてしばらく生活して、それから、泥団子がないからだ、と思った。

 わたしの好きなアーティストにボルタンスキーという人がいて、最近死んじゃったんだけど、この人は調子の悪い時期に泥団子を三千個つくった。すごく正確な球形の、ほとんど完璧に磨かれた泥団子だ。作品ではない。ジャスト・泥団子である。
 子どものころに泥団子をこねたことのある人はわかると思うんだけど、球形に近いつるつるの泥団子を作るのは手間のかかることだ。それをひとりきりでやる。何年もやる。無意味な球形。無目的な鏡面。等距離をあけて並んだ無価値な三千個。それは象徴ではない。道具でもない。泥団子である。
 わたしはこのエピソードがたいそう好きだ。わたしには何年も泥団子をこねる環境を作る力量も実行する根性もないのだが、ある種の精神状態において無意味な手作業を繰りかえすくせがあるからだ。そういうとき、わたしは閉じていて、わたしの中の何かと向かい合っている。わたしはそういう時間、すなわちひとりでぼうっとする時間がないとやっていられない。意味や価値のあることばかりやって過ごすなんて狂気の沙汰だと思う。
 人間はときどき、自分の中にダイブして何かを拾ってくる必要がある。そのときは閉じていなくてはいけない。それは他人と共有できるものではない。そのときの閉じ方としてわたしの中で解説しやすい例にあたるのが、ボルタンスキーの泥団子なのである。

 SNSをひらく。「言語化ありがとうございます!」というリプライが来る。泥団子をこねろ、とわたしは思う。そこらへんのてきとうな言語化マシン(と彼らが見なしたアカウント、すなわちわたし)の出力を便利に使っているヒマがあったら、泥団子をこねろ。あなたにはあなたに固有の泥団子があるはずだ。それは話題の作品についての手っ取り早い「言語化」なんかよりずっと大切なものであるはずだ。そう思う。
 わたしの泥団子は何かって。それはね、内緒です。