傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

人でなしの誘惑

 イラストを描いて生計を立てはじめてもうすぐ十五年になる。学生の時分から仕事をもらっていて、そのまま職業イラストレーターになった。企業に所属してはいるが、企業側の役割はほぼエージェントであり、中身は自営業者の集まりに近い。所属を経由してできる仕事がなくなれば身の振り方を考える。イラストは今とても安い。趣味で描いたイラストを公開するのも当たり前になり、注文するのではなくそれを買うという流れもできている。職業イラストレーターの市場は縮小していて、わたしのイラストも一時期より安くなった。ディレクションなど仕事の幅を広げても収入は横ばいだ。しかし、辞めるほど悲惨な状況でもない。華やかとはいえないが、まあまあ悪くない職業人生だと思っている。

 わたし自身のイラストが安くなったのは残念なことだが、発注者も描き手も多様化したのはとても良いことだと思う。この世にはできるだけたくさんの絵があってほしい。わたしはそう思う。しかしながら、多様化というのは一筋縄でいく現象ではない。多様化を受け入れるからには「常識」「普通」という語は禁句である。「わたしはこれが標準的だと認識しているのですが、御社はいかがでしょうか」くらいがギリギリの線である。

 絵を描くのがどういう作業か理解していない発注者がいる。権利関係を認識していない発注者がいる。違法な行為を「みんなやっているから」と発注する。無償で描いてほしいと言う。どれも多様化以前には考えられなかったことだ。いずれも論外で、仕事は断る。わたしは企業に所属しているから、いざとなったら社長が出てきてくれる。それでも些末なことには自分で対処しなければならない。即断るほどでない問題が重なると、ほんとうに途方に暮れてしまう。

 納品した日から一週間以上、納品確認の連絡がない。やっと返事が来たのが二十一時で、「今日のうちにこことここを修正してほしい」と書かれている(二十三時に送った)。請求書を出すと、フォーマットの修正指示が五月雨式に来る。報酬の振り込みが遅延する。成果物にクレジットされたイラストレーターの氏名がまちがっている。これらが同一の発注元で繰りかえされる。

 わたしはいちいち彼らに「それは問題ではありませんか」と指摘しなければならないのだろうか。それとも彼らの仕事を断ればいいのだろうか。そもそもそういう扱いをされること自体が、わたしに実力のない証拠なのだろうか。新人みたいにいちいち社長に出てきてもらわなくちゃいけないのだろうか。

 それはさあ、と同僚が言う。まあ実力がないってことよ。絵を描きたい人間なんかいくらでもいて、下請けであるあんたは取り替え可能な部品なんだよ。そういう依頼元は全部断るっていうのもひとつの手だねえ。でもあたしなら受ける。そしていちいち気に病まない。あんたはねえ、そういう相手を、人間だと思うから、悪いのよ。

 あんたが「彼らはどうしてあのようなのか」と考えるのは、相手をまともなプロとして扱って、自分の仲間のように思っているからだよ。失礼があってはいけないと思っているからだよ。要するに相手の職能に期待しているんだよ。だからストレスがたまる。いいかい、相手は発表媒体とカネだけを出す機能だ。向こうはあんたに礼を欠いている。そしてそれをぜんぜん気にしていない。あんただけが勝手に相手の事情やら何らやらを忖度して気に病んでいる。あんたはね、必要なことはぜんぶ先回りして決めて、条件もぜんぶ設定して、淡々と絵を送ればそれでいいんだよ。

 わたしは驚いて同僚を見る。同僚はにっと笑う。あのねえ、自分がかかわる相手すべてを人間として認めるなんて、きついことだよ、多様性の増大は、不愉快になる可能性の増大でもあるんだよ、不愉快だと感じても目に見える加害さえしなければいいんだよ、自分の仲間のことだけに心を使って、残りの人物はファンクションだと思うことだよ、業務上自分がきちんとやっているという証拠だけ残しておけばいいんだよ。業務メール全部コピペで済むよ。

 わたしはこの同僚を親切だと思っていた。やさしくて寛大だと思っていた。でもそうじゃなかった。この人は世の中の大半の人を人と思わないことで生きるための労力を省いている。だから余裕があって、他人に親切にすることができる。自分がその気になった「人」にだけ。

 わたしは言う。それって、だいぶ、人でなしっぽく聞こえるんだけど。そうねえと同僚は言う。そうかもねえ、でもあんたはいずれ、その人でなしの仲間に加わることになるだろうよ。