傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

彼女の無邪気な異文化体験

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それで活性化したのがオンラインのつながりである。わたしは本名ベースのSNSのアカウントを持っているが、投稿はしていない。属性だけ変える。そうすればいちいち「転職しました」というメールなどを出さなくていいからである。
 そんなだから「友だち申請」的なものもふだんは少ないのだけれど、疫病流行から三ヶ月くらいでぽつぽつ増えはじめ、半年も経つと誰だか思い出せないような人からも申請が来るようになった。新しい人と知り合う機会が減った疫病下では、古いつながりを引っぱりだしてつながりなおしておこうとする人が多いのかもしれない。
 わたしは機械的に相手の素性を確かめる。とくに問題なければ「友だち」申請を許諾する。だってわたしはどうせなにも投稿していない。申請についているメッセージには返信しない。メッセージを送りたければ自分から送るし、そのときは別の連絡先を交換する。わたしの交流は常にサシなのだ。

 今日も雑に申請を見た。ひとつは小学生のころにクラスが一緒になったかもしれないアカウント。許諾。もうひとつはたしか大学に入ったばかりのころに何度か話したーー。
 そこまで脳が動いた段階で、わたしは「拒否」のボタンを押した。

 彼女は裕福な家のお嬢さんだった。いかにもそれらしい仕草で、派手すぎない質の良い服を着ていて、いつでも似たようなお友だちと一緒にいた。そうしてたまたま何かの授業のグループワークでわたしと一緒になった。それは彼女の苦手分野だったらしく、わたしが彼女の作業を巻き取った。
 彼女はわたしにたいそう感謝し、わたしを見かけると寄ってくるようになった。学食でレジを打っていると聞いたから見に来たの。どうしてそのお仕事を選ばれたの? 家庭教師や塾講師ではなくて? そう、両方されているのね。昼休みのレジは食事が出るから!? なるほど……。飲食関係に興味があるのね。今度の土曜日、遠藤さんたちとホームパーティだって聞いたの、わたしもお邪魔していい?
 何人来てもかまいやしないとわたしはこたえた。土曜日の夜、彼女は興味津々でわたしの家に来た。その瞳はきらきらと輝いていた。
 わたしは自分で自分を食わせている学生だった。裕福な家で育って裕福な友人とだけ一緒にいた彼女にはわたしの生活のすべてが珍しいらしかった。接したことがないから。フリーマーケットで買って自分のサイズに詰めた服が「おしゃれ」に見えるらしかった。見たことがないから。私が作る安上がりな料理にもたいそう関心があるようだった。食べたことがないから。彼女はわたしをながめまわし、すごい、と言った。すごい、頼もしくて、尊敬しちゃう。勉強になります。

 彼女を連れてきた遠藤が彼女を送り、それから電話をかけてきた。ごめん。あれはないわ。
 まあまあ、とわたしは言った。たいしたことはない。単なる無知でしょう。まかない目当てのバイトしてるのがわかんないレベルなんだよ、ある意味すごいわ。自分の知らない生活について本を読むなり統計をあたるなりしたことがなかったのかね。失礼だけど、まあ、無邪気な観光客みたいなものでしょ。
 遠藤は黙り、それから言った。それは無邪気ではない。知的怠慢だ。そしてあなたに対する搾取だ。あなたは観光スポットではない。彼女は学生同士の友人関係という枠組みの中であなたを観光した。そういうのを搾取という。わたしはそのように無知を恥じない態度を品性の欠如と呼ぶ。

 今にして思えば遠藤は十八歳の大学一年生としてはだいぶしっかりしたやつだった。なるほど、とわたしは思った。そしてわたしはそのできごとを忘れた。わたしは多忙で移り気で、関心がなく不快なものはぜんぶ忘れる能力をそなえていたのである。

 「友だち申請」が来て二十年ぶりに彼女のことを思い出したのだけれど、今でもなぜ彼女のふるまいがものすごく気持ち悪かったかはわからない。同じころ、別の裕福な女の子が深刻な顔で「自分があなたみたいな状況だったらみじめさで自殺している」と言ったことがあって、そのときは腹を立てて抗議したけれどそれ以降はあんまり怒っていなかった。というか件のSNSの「友達リスト」を見たらその人の名前があった。せりふは強烈だが、あとから名前を見てもなんとも思わない程度のできごとだった、ということだ。
 はたから見たら「みじめさで自殺する」のほうがひどいせりふだけれど、言われた側は「頼もしくて尊敬しちゃう」のほうがはるかにキモかった、ということだ。どうしてだろうか。久しぶりに遠藤に連絡をとってみよう。