傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

だからきみはずっと二番手

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。僕はちょうど子どもの病気がわかって手がかかるようになったところで、疫病をいいことに彼女と会うことをやめた。ちょっと飽きがきてたし。

 自分がダメなやつだという自覚はあるんだけど、僕はほとんどいつでも二番手の彼女を必要とする。今なら結婚してるから不倫相手ってことになるかな。でも人の倫に悖る!みたいな大仰な感じじゃないんだよな。ちょっとした気晴らしっていうか、バランス取りたいなーって感じ。
 人間と真剣に向き合うのは疲れることだ。ちゃんと見てなきゃ相手のことはわからないし、そうなると色恋の甘ったるい良さが感じられなくなっちゃったりもするし、より親しくなれば相手だけじゃなくてその周辺のことも考えなきゃいけない。結婚すれば家同士の関係までマネジメントすることになる。とにかく疲れる。でも僕は妻と息子に対してはそうしたいと思っている。疲れてもそうすると決めているんだ。
 仕事して家庭をやって、良き社会人で良き夫で父で、そんなのしんどいじゃん。そんで思うわけ、彼女ほしーって。
 この「彼女」は恋人という意味ではない。独身時代の妻や、その前の歴代彼女のことではない。同じように「彼女」と呼んでいても、意味がまったく異なる。

 二番手の女たちは個別具体的な理解を必要としない。彼女たちは外見も性格も異なるのに、テンプレートが通用する。なぜなら彼女たちの内面には一つの共通したマグマが煮えたぎっているからだーー「自分は上等な人間のはずだから、上等な男から愛されるはずだ」という。
 なんでだろうね。別に平凡なのにね。彼女たちも僕も。

 僕はなかなかのスペックを誇る。勤務先と学歴と育ちと外見と「センス」のいずれにおいても上級。大富豪とかじゃない。でもハイスペ。評価軸におけるどの要素を取っても上位であることは彼女たちーー二番手の女たちにとってはきわめて重要なことだ。センター試験方式。今はセンターって言わないんだっけ。
 そして僕は彼女たちを「理解」する。この「理解」というのはすなわち「きみは特別だ」という肯定だ。僕は「センス」のいいことばで彼女たちを肯定する。ただ受験勉強ができただけじゃない、文化的な見識も豊かな人間が発する「特別な」ことばで。
 もちろん僕は僕のハイスペらしからぬところを彼女たちに見せることはない。彼女たちが見たいものだけを見せる。そうすれば彼女たちは僕に夢中になる。

 疫病を言い訳に会わないことを伝えると彼女は恍惚と悲しんでいた。彼女は僕から放っておかれることを「大切にされている」と受け取るのだった。僕の言いくるめが上手だからじゃない。彼女がそう言ってほしいからだ。びっくりするほどテンプレート。以前の二番手の女に同じせりふを言ったら同じ反応だった。ほんとに別の存在なのかよと思うくらい。
 二番手の女たちは受動的な悲劇が大好きだ。自分のことを愛している相手から大切にされていて、でも彼はどうしても家を捨てられない事情があるから(この事情というのはもちろんまぼろしである。僕は僕の意思で結婚して婚姻関係を継続している、ザッツ・オール)、自分たちは引き裂かれてしまう、そういう美しい悲劇を、ことのほか愛している。

 疫病の感染者が大きく減った。それで彼女のSNSをのぞいたら、相変わらずポエムが書き連ねられていた。彼女の世界の中ではそうやって「耐えて」「尽くして」いれば「愛されて」「幸せになる」のである。
 だからもちろん僕は彼女に連絡する。いいかげん良き社会人良き夫良き父であることに疲れてきたところだ。
 きみはほんとうに素敵だ、と僕は言うだろう。きみだけが僕を理解してくれる。でも僕のために人生を犠牲にしないでほしい。僕が耐えられないから。そう言うだろう。そして彼女はそれをうっとりと聞くだろう。
 もちろん彼女は僕のために人生を犠牲にする。具体的には既婚の男の都合に合わせて雑に扱われるセカンドの女として数年間を過ごす。それが人生の犠牲とはとても思えないんだけど、まあそれが犠牲だと思うのが好きなんだ、彼女たちは。特別な男に愛されている特別な自分がそこらの凡人にはわからない愛をつらぬくっていうのが好きなんだ。だから僕は二番手の彼女がとても好きだ。苦労して考えたりしなくていいテンプレで何でも僕の都合に合わせてくれて、とっても素敵だと思うんだ。