傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

ここから出たくない

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それから一年半、わたしはかつてなくラクな日常を送っている。生きるってこんなに気楽な、快いものだったのかと、誰にも言わないけど、毎日そう思っている。

 その状態を「不安」と名付けたのはわたしではない。わたしにとってそれは常に感じるものであり、デフォルトだった。子どもだったからそんな言い回しは知らなかったけれど、でも「不安になりやすい」と名付けられたときにはひどく驚いた。だってわたしはいつもそうだし、内面がのぞけないけれど実際にはみんなそうなのだろうと思っていた。
 わたしは不安な子どもであり、不安な思春期を過ぎて、不安な大人になった。子どもだから、思春期だから不安なのだと言う人もいたけれど、彼らは何もわかっちゃいないのだ。これは性分であり、わたしのデフォルトなのだ。

 ある意味でそれは正しい、とわたしの数少ない友人が言った。今こうして向かい合ってお茶をのんでいてわたしが突然あなたを殴る可能性はある。可能性というのはそういうものだ。何にだって可能性はある。テロ集団が手榴弾を投げつけてくる可能性もある。ダンプカーが突っ込んでくる可能性はもっとある。地震や火事が起きる可能性はもっともっとある。不安になって当然だ。可能性があるんだからね。
 でもあなたみたいなごく一部の人をのぞけば人間はある意味で非論理的な楽観性を持っている。そこいらの人間は自分に危害を加えてこないと思っている。わたしが一緒に暮らしている男なんか高校生の時分まで人を棒で殴ったり殴られたりしていて、えっと要するに剣道部出身ということね、それで平気で暮らしていたのよ、決められたルールの外で人間が自分を棒でたたくことはないと信じているから平気なのよ。あなたはそういうの信じられないでしょう。
 信じられないというか、理解できない。スポーツのルールは理解できるけれど、それを好んでやることは理解できない。恐ろしい可能性が多すぎる。わたしがそうこたえると、うん、と友人は言った。あのさ、わたしはたとえば知り合ったばかりの男の人とデートして相手の家に行くとだいたい「こいつがわたしに危害を加えようとしたらこういう経路で逃げよう」と考えるんだけど、あなたはどう。
 考える、でもみんなが考えないらしいことは知っている。わたしがそう答えると友人はうっそりと笑い、「みんな」じゃないよ、と言った。人間の形をしている存在に危害を加えられたことのある人間はその種の不安が強くなるんですよ。あなたの場合はそうじゃなくて性分なんだろうけど。

 わたしの不安は筋金入りで、「誰かにどうにかしてほしい」などという甘えた気持ちはないので(なぜ赤の他人にそんなことが期待できるのか)、他人に不安感をアピールすることはない。自分なりの対策を立ててさまざまな工夫をこらして社会生活を送っている。
 でもその工夫の八割が突然必要なくなった。疫病が流行したためである。

 会社からも電車からも人間が減った。わたしは幸いにも(ほんとうに幸いにも)週に三日はリモートワークができ、出社時も電車が混んでいない時間帯を選ぶことができる。その上会社にもあまり人がいない。電話対応は特定の番号に集中させたので、不規則な音声もぐっと減った。もう最高である。
 わたしはそもそも物理的に近いところに他人がいることが愉快ではない。不安感を制御したところで不快感は残る。簡単に言うと、パーソナルスペースがものすごく広い。いちばん嫌いなのは狭い会議室である。肩が触れあうような距離感で座る人がいちばんいやだ。混んでいる電車が嫌いなばかりに、雨でなければ一時間歩いて通勤していたほどである。
 しかし人間と人間が近くに寄ることは社会悪になった。夢にも見なかった素晴らしい世界がやってきた。寿命が延びた気がする。

 そんなわけで現在のわたしのもっとも大きな不安は疫病収束後の社会である。ソーシャルディスタンスが廃止されたらどうしよう。いや制定されたわけではないので廃止というのは変だけれども。
 わたしの会社は引き続きのリモートワークを認めてくれるだろうか。狭い会議室に行かなくていいだろうか。

 人がたくさん亡くなってみんなが不自由しているのにわたしはこんなにも今の世界がうれしい。そのことに後ろめたさがないのではない。だからよほどの仲の相手以外には言わない。言わないけど、わたしは今のこの世界から出たくない。