傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

わたしがメンヘラだったころ

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのためにわたしはやけに健全な生活をしていて、それがつまらない。

 上司にZoom面談を申し入れた。上司は早々に「おめでたいことですか、それとも私が残念に思うことでしょうか。両方かもしれませんが」と言う。なるほどね、この人が部下から一対一の面談を申し入れられるシチュエーションって、部下の結婚か妊娠か転職か結婚・妊娠による退職か、しかなかったわけね。
 普通はそんなものなのかも。わたしはそれ以外でも一対一での面談何度もしてきたけど。面談ていうか、相談。相談って、人間を引っかけるためにはほんとうにいいフックなんだよね。今はそういうことも難しくなっちゃったけど。あと上司が女だしあれこれ言っても通じないタイプだから対面でもたぶん必要ないんだけど。
 おめでたいほうです、仕事は続けたいです、とわたしは言う。上司は画面の向こうで破顔する。わたしは思わず苦笑いする。
 おめでたい人だね。自分は結婚できないで四十過ぎちゃったのに。聞いてるよ、彼氏と住んでるんだって? それなのに結婚してもらえなくて、もう子どもも無理だろうし、数年前より太って劣化してるし、いくらお仕事がんばったって「バリキャリにしがみつくしかない」系バリキャリになっちゃってるのにね。
 わたしはそんな上司のことが嫌いではない。女としてのスペックが低いから目の前にいてもモヤモヤしないし、男じゃないからわたしを狙わないし、わたしも攻略しなくていい。女だけど女じゃない。年齢の問題じゃないよ、わたしのママは上司より年上だけど、女の子だもん。

 わたしは元気なメンヘラである。
 わたしのことをそう言ったのはわたし自身だけれど、言わせたのは今の上司だ。わたしは新卒入社後に所属した部署の男性たちを骨抜きにし、二年目に異動することになった。そのいわば「引取先」が今の部署だ。女の管理職はたいてい妬みがましいから好きじゃないんだけど、あの人ならまあいいかなとわたしは思った。スペックが低いだけじゃなくて、仕事以外のことではぼけっとしてて無害だから。
 経緯はおおむね聞いていますが、と上司は言った。ご本人からも聞きたいです。わたしは簡単に話した。つまり男たちがわたしのことを勝手に好きになって迷惑したってこと。わたしはその中の誰も好きじゃないしつきあってもいないし会社の外に彼氏がいること。
 そういうことは学生時代にもあったのですかと上司が聞くので、ええ、とわたしはこたえた。わたし、メンヘラなんで、ときどきヘラってまわりの人に弱音を吐いちゃうんです。そうするとみんな彼氏気取りになっちゃうんです。困りますよね。
 メンヘラ、と上司はつぶやいた。仕事ができてバイタリティあふれる、メンヘラ。
 わたしはそれを聞いてなんだか面白くなって笑い、そうなんです、とこたえた。わたし、元気なメンヘラなんです。

 わたしは元気で有能で若くて美人なメンヘラであり、以下の三つの状態のいずれかにある。いち、男たちを振り回し気を持たせ全員振る。に、彼氏を作り彼氏が人生に支障をきたすほど尽くさせる。さん、振り回す男たちまたは彼氏(候補)の探索ならびにメンテナンス。
 思春期以降、この三つの要素から成るサイクルの中にいなかったことはない。何人かの親しい友達がわたしにたずねる。どうしてそんなことをするの。わたしはこたえる。メンヘラだから。承認欲求天井知らずだから。
 そう言っておけばそれ以上のせりふはいらない。

 上司が「これは私の個人的なお願いなんだけれど、社内の焼き畑農業はつつしんでほしい」と言うので(実際、異動してみたらろくな男がいなかったし)、会社の外でいくつかのコミュニティを渡り歩きつつマッチングアプリで無双し、わたしを溺愛する彼氏を何人か作って数年を過ごした。ちなみに仕事では同期でいちばんの業績を上げた。
 でも疫病がやってきて、わたしのその種の活動は停止を余儀なくされた。彼氏は前から結婚したがっていて、わたしとしてはもうちょっと上も狙えるとは思ったけど、人間性とか考えたらトータルで悪くないし、プロポーズを受けることにした。いろいろやって飽きてきてたし。この状況で絆を深めましたみたいなストーリーも悪くないし。

 結婚式でスピーチしてくださいよ、とわたしが言うと、上司はもう一度破顔して、しかたないですねえ、と言った。