傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

だからあなたと出会わなかった

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。だからわたしはこの夏、あの外国みたいな街角で、あなたと出会わなかった。

 わたしは退屈な大学生で、だからあの街を歩いていなかった。疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出されていたから、わたしはだまっておうちにいた。だからわたしはそこにいなかった。

 そこは繁華街で、時代時代でニュースとかが言う「若者の街」のうち最近注目されはじめたところで、わたしは大学一年生で、音楽をよく聞いていて、外国とか好きで、英語をけっこう話せて第二ないし第三外国語がちょっとできて、流行とかもぜんぜん好きで、だから、わたしはそこに、いなかった。
 だって、東京は疫病とオリンピックのために大学生が軽薄に出歩くことのできる街を残していないことになっていたから。

 わたしは良い子で、だからずっと、おうちにいた。おとうさんとおかあさんといっしょにテレビで楽しくオリンピックを見ていた。ほんとうだよ。
 ほんとうだとして、これから先を話すね。ねえ、あなた、ほんとは知っているんだよね。ばかみたい、っていうかばかだよね。あなたもわたしも。

 ばか。

 わたしは閉塞した受験期に本格的な歌と踊りをやる隣国のアイドルを好きにならなかったし、だから入学後の最初の試験が終わった晩にその街に行かなかった。入学後ずっとオンライン授業でイライラしていてわずかな登校期間にようやくつくった大学の友だちと授業のあとに居合わせたりしなかった。「下校後はまっすぐ帰りなさい」なんて小学生みたいなこと大学から言われて言うこときかないで出かけたりしなかった。友だちといっぱいおしゃべりしてファッションフードを食べてプチプラの売れてるコスメを買いに行かなかった。
 わたしたちはマスクをきっちりつけていた。だって、若い人を狙い澄ましたような変異型が出たって、ニュースで言ってたもの。わたしはニュースをちゃんと読むタイプなんだもの。お父さんとお母さんが新聞の電子版を取っていて、わたしは受験が終わったあともそれをちゃんと読んでいるんだもの。あなた、それでもわたしが流行病に罹ることを怖くなかったと思わない? 思わないんだ。ばかな若い女が怖くなるだけの勉強ができないほどクソバカだから街に出たって思うんだ。それならそれで、いいんじゃないですか。

 わたしは、街になんか、出てない。だからわたしはあなたと出会わなかった。

 わたしが軽薄なファッションフードをちゃむちゃむ噛んでるとあなたはわたしの前に出現する。あなたはなにも噛んでいない。まっすぐ歩いてくる。そうしてわたしの目の前で止まる。わたしは視線を上げる。わたしにはわかる。あなたがわたしのその人だということが。
 嘘だよ。だってわたしは、そこにいなかったんだから。

 わたしは友だちに「あのさ、この人と今からデートしていいかな?」って言わなかった。そんなキャラじゃないから。あなたは「どうもすみません、これはもうしかたのないことなので」なんて言わなかった。きれいな英語で言わなかった。お月様みたいな目で言わなかった。わたしも友だちも、あの街角で、あなたと鉢合わせなかったから。

 わたしたちは思いのほかディープなエスニックタウンを歩かなかった。ここは日本で、東京で、海外からの人の出入りはきっちり制限されていて、それなのにあたりから外国語が聞こえることはないはずだった。わたしはその異国語のざわめきを美しいと感じなかった。ずっとずっと前に異国から来てこの国にいる人々がキムチとかを売っている姿を見なかった。その国の男の子たちがその国のことばでそのことばの通じる女の子たちをナンパしてそこいらのホテルに消えていくのを「すてきだな」なんて思わなかった。わたしは勉強ができるのでここが戦後の傷跡としての在日外国人の街だということを知らないのではなかった。そうして彼らの率直で軽薄な愛のことばを、うらやましいと思わないのではなかった。
 わたしたちはいつのまにか手をつながなかった。わたしは突然大胆なことがしたくなって「キスしようよ」と言わなかった。あなたはわたしを見て「いいアイデアだね、でもあとで」と言わなかったし、わたしはそれを聞いて「できるだけ早くしてね」と言わなかった。あなたはそうして、完全にイノセントな顔してわたしの目を見て笑わなかった。

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。だからわたしはこの夏、あなたと出会わなかった。