傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

わたしは心配しない

 ぼくが生まれたとき、見た?

 五歳児がたずねるので、わたしは少しことばを選んで、生まれる前の日と、生まれて何日か後に見たよ、とこたえた。まえのひ、と五歳児は繰りかえした。まえのひはまだおなかのなか?

 そうだよ、とわたしは言った。そしてその日のことを思い出した。

 友人が近所の病院に入院した。病気じゃないんだけど、と友人は言った。いろいろあって超ハイリスク出産だから入院して完全管理してもらって帝王切開で出すの。あ、うん、産むの。いいじゃん「出す」でも。要は出産ね出産。

 わたしはその病院から徒歩十五分のところに住んでいたので、彼女の入院中何度かお使いを頼まれた。「ハチミツ、茎わかめカリカリ梅」みたいな注文が来て、それを仕入れて行くのである。友人は超ハイリスク状態のわりに平然としており、まるで単におなかが大きいだけの人みたいな顔をして、病室ではなく応接室のようなところで私に会うのだった。

 気がついたら出産前日だった。わたしはもう気が気でなく、点滴をガラガラ引きながら「よう」とあらわれた友人を、頭のてっぺんから足のつま先までじろじろ見た。だって、目の前にいるこの人は、明日、命がけの仕事をするのだ。ほんとうに死んじゃうかもしれないのだ。不安でないはずがない。でもわたしが不安を表出してはいけない。当事者に傍観者の不安をケアさせてはいけない。

 友人はわたしが手渡したおやつをもりもりと食べ、ぐいぐいとペットボトルの麦茶を飲み、終わったらビール飲もうよビール、と言った。完全ミルクの予定だからさ。明日腹かっさばいて、終わったあともいちおう入院生活なんだけど、お医者さんに訊いたら「傷の具合によりますが、順調なら、いいですよ」って。十字路の斜め向かいにお好み焼き屋さんがあるんだよね。熱々のやつ食べたい。

 わたしはうなずいた。非現実的だろうが何だろうが、未来の話ならなんでもよかった。「母子ともに健康」という慣用句を、喉から手が出るほど欲しかった。早く二十四時間が過ぎて、その文言がスマートフォンに入ってきてほしかった。そのときまでワープしてしまいたかった。

 顔色悪いなあ、と友人は言った。まあそりゃ心配でしょ。でもやめな。この場合、心配してもどうしようもないから。なんもいいことないから。できるだけのことは、やった。できなかったこともある。まちがったかもしれないこともある。でも今はもう腹かっさばく前日だ。これ以上心配しても何もいいことはない。だから心配しない。わたしは心配しない。だからあんたも心配すんな。

 わたしはうなずいた。そして、やめる、と宣言した。わたしはそのときはじめて「心配しない」という選択肢をもらったのだと思う。「心配しないことは可能だ」と教えてもらったのだと思う。どうすればできるようになるかを、まだ人にはうまく言えないのだけれど、帝王切開前日の超ハイリスク妊婦だった友人が「やめな」と言ったから、無用な心配を、途中でやめられるようになった。

 友人は無事に出産した。「早く見においでよ」と言うので、別の友人と連れだって行った。赤ちゃんはまだGCUに入っていて、ガラス越しに友人が見せてくれた。ものすごく小さくて、まだガラス張りの部屋を出ることはできなくて、でも、元気だということだった。わたしたちは歓喜した。赤ちゃんとの対面が済むと彼女は普段着で出てきて、言った。じゃあ、ビール飲もう。鉄板でお好み焼きをじゅうじゅう焼こう。

 わたしたちは内心非常に驚いた。まさか本気とは思わなかったのだ。「斜め向かいの店」といったって、けっこう歩く。なにより階段をのぼる。とても大きな十字路を、歩道橋で渡るのだ。わたしは思った。よし、途中で彼女がへばったら、わたしたちが担いで病院に戻ろう。二人いるんだ、どうにかなるさ。

 彼女はふだんよりも慎重に、しかし力強く歩き、みごとにその道を往復した。宣言どおり熱々の鉄板を前に(一杯だけという、妊娠前の彼女にくらべたら控えめな量ではあるものの)グラスをかたむけ、「シャバはいいねえ」と言った。

 そのようにしてやってきた子がもう五歳だ。私のことはたぶん親戚か何かだと思っている。当たり前みたいな顔して私の膝に乗っている。きみが生まれたとき、と私は言う。わたしはとてもうれしくて、前日にも「出ておいで」って言いに行ったし、すぐあとに会いにいったんだよ。とっても楽しかった。