傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

世界の罅とわたしの片耳

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。わたしはもともとよぶんな外出をあまりしないので、他の人ほど苛々したりはしなかった。職場は騒然としてわたしも慣れないリモートワークやら隔日出社やらに振り回されたけれど、本来の仕事はできていたし、感染症の流行で必要とされるタイプの業界だったために会社が潰れる心配もなかった。人手が足りなくてアシスタントの派遣社員を手配しつつ社員の採用を進めたほどである。

 私生活でももっともこの疫病の影響を受けにくいたぐいの人間だと思う。基礎疾患がなく、高齢ではなく、独身独居で家族の感染リスクを気にする必要もない。日常的に会話する友人はいるが、いずれも一対一で会う習慣だ。三人以上で人と会う機会はもとより年に一度や二度くらい、なくなっても問題はない。
 一対一で食事することも憚られる時期にはZoom飲みでじゅうぶんだ。あれが向かないのは大勢の宴会である。一対一ならわりといける。五人以上だと厳しい。多人数での会食はやめておくように要請されているから、大勢で集まるのが好きな人はつらかろうと思う。

 わたしは知らない人と会いたいとか知らない場所に行きたいとか、そういう欲求が薄い。今の自分の生活に満足している。ひとりで部屋で好きなことをしているほうが良い。出不精なのである。精神的にも出不精で、同世代の皆がやっているSNSにも興味がない。他人の生活をことこまかに知ってどうするのかと思う。友人たちとも四六時中連絡をとりたいとは思わない。ひとりあたま二、三ヶ月に一度話をすればそれでいいので、疫病下でもそれはできる。
 友人たちが高齢の親御さんに会えないという話を聞くと気の毒だと思うが、わたしの親は早世してとうにいない。弟との仲は悪くはないが、きょうだいにしじゅう会いたい年齢でもなし、ときどき甥を連れてきてくれればそれでじゅうぶんである。甥はとてもかわいいが、それでもしょっちゅう会いたいというわけではない。

 そんなだから平気なつもりだった。

 前日の夜は友人とZoom飲みをしていた。わたしが中古のマンションを買おうと思っているので、そのリフォームの話だとか、共通の友人の子のクリスマスプレゼントの相談だとか、好きなサッカーチームの話だとかをして、後半はNetflixで彼女のおすすめの映画を流しながらだらだらおしゃべりした。わたしの飲酒量はたいしたことがない。好きなベルギービールの缶をふたつ、あとはお茶を飲んで寝た。

 当日は土曜日だったので朝から掃除をした(わたしは掃除をよくする)。掃除中にものを何度か落とし、不審に思った。掃除のルーティンは決まっているので(引っ越しや模様替えのたびにもっとも効率的な掃除の手順を開発する)、ものを落とすことは少ない。
 そのうち景色が妙に平板に見えてきた。視界がどことなく白っぽく見える。住んでいるマンションの斜め向かいに保育園があって、土曜日にもけっこうな数の幼児が来るのだけれど、その声の聞こえ方がなんとなくいつもとちがう。なんというか、遠い気がする。いつもは「いま泣いてるのはよく泣くあの子だな」くらいのことがわかるのだが(土曜日に家にいることが多いから、近所の保育園のよく泣く子の声まで覚えるのだ)、今日はわからない。耳たぶを触る。そして気づく。片耳が聞こえていない。

 幸い軽症だったとかで、しばらくの投薬で治った。医師はゆっくりと言った。早く来てくださってなによりです。突然の難聴、増えているんですよ。片耳だと意外と気づかずにね、あるいは甘く見て、病院に来ない方も多い。感染症に直接対応する医者にはおよびませんが、われわれ耳鼻科と、あと皮膚科が忙しくなっています。原因の特定はできません。しかし以前より増えているのはこの状況下での疲労と心労のせいと考えるよりない。誰もが何かをうしなっているのだから、ストレスを感じて当然です。おだいじに。

 わたしは何かをうしなったのだろうか。何を? 会社の騒がしい忘年会の、ほしいものがないビンゴゲームを? 弟の結婚相手の親族たちとの、あとから見ることのない集合写真を? 新幹線の道行きが億劫でできれば避けたかった出張の機会を?

 友人に尋ねる。わたしは何をうしなったのかしら。あなたのように旅行が好きなわけでも知らない人に会いたいわけでもないのに。友人がこたえる。わからない。わからないけど、たぶん、世界。世界? そう、あなたが長い時間をかけて作り上げた、堅牢で変化の少ない世界。それに罅が入ったの。