傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

わたしは選ばれなければならない

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。小学生も中学生もしばらく学校に行けなくなり、そのあと行けるようになった。大学生だけが学校に行けないままだ。正確に言うと、どうしても行かなければならない(と大人たちが判断した)学生は行けるけれど、わたしはその対象ではないのだった。
 いろいろの理由が説明され、オンラインで授業がおこなわれた。わたしは粛々とそれにしたがった。わたしは今年入学した一年生で、だからまだ学生として自分の大学に行ったことがない。アルバイト先にはずいぶんと行っている。

 わたしの大学はオンライン授業をがんばっているほうだと思う。わたしは抜け目なくSNSを駆使していろんな人とつながっているのだけれど、前期の授業の話をすると他大の新入生から「さすが」とか「うちなんかこんなだよ」とか言われる。それはまあ、そうなんだろうと思う。わたしの学校の大人たちはがんばってくれているんだろうと思う。
 だからといってわたしたちが満足しているかというと、もちろんそんなはずはない。自宅でオンライン授業を受けるために入学したのではないのだ、もちろん。正直に言うなら、合格発表のあと記念写真を撮った門の前までダッシュして地面に寝そべって手足をばたばたさせて「大学生をやらせろ」と叫びたい。「こんなの大学生活じゃない」とだだをこねたい。スーパーマーケットでひっくりかえってお菓子をねだる幼児みたいに。

 でもやらない。幼児ではないから。十九歳だから。もう大人に近いから。理屈でものを考えて判断できるから。自分にそう言い聞かせて、「オンラインで授業を受けられる大学生は感染リスクが低くて恵まれている」という理屈をのみこむ。がまんして、がまんして、がまんするーーいつまでかもわからないまま。

 オンラインでつながった新入生仲間を「友だち」と呼ぶ人もいる。わたしはそうは思っていない。オンラインだけで友だちができるはずがないと思っている。SNSでは薄く広くつながり、そのあと相互の選別があって、ようやく友だちができるんだと思っている。そして顔を合わせないまま選別したりされたりすることは、いくら若くたって、わたしにはまだ経験がない。
 わたしは友だちを作るのにさほど苦労しないタイプだった。でもそれは疫病禍の前の話だ。大勢が物理的に同じ場所にいるのなら、わたしは強い。どんどん人に話しかけるタイプだし、けっこう空気も読めるし、空気に振り回されないずうずうしさもあるから。
 でも今はそんな「場」はない。SNSでいくら上手に立ち回ったところで儚いとわたしは思う。SNSでは親しくする相手の選別を先送りすることができるからだ。SNSには誰が誰を選び誰を選ばなかったかを見せないようにする「やさしい」仕組みがあるからだ。そして親密な人間関係は相互の選別のもとにしかありえないとわたしは思っているからだ。

 わたしは選ばれなければならない。この状況で選ばれなければならない。自分が選んだ相手から。そうしないとわたしの世界は広がらない。そのように思う。そうじゃない人もいるんだろうけど、わたしは大学生になったら大学で新しい友だちがほしいタイプなのだ。
 でも今は人に選んでもらうハードルがすごく高い。オフラインで人に会おうとすれば、もれなく感染リスクがついてくる。感染リスクはSNSが「やさしく」隠蔽してくれた選別の残酷さをあらためて示す。わたしは自分が選んだ相手に「感染リスクを取ってでも親密になりたい」と思ってもらえるだろうか? 親密になるために会おうと思ってもらえるだろうか?

 わたしは矛盾している。わたしは社会全体の感染リスクを下げることを善だと思っている。でもわたしは今日、英語のクラスが一緒だった四人の同級生と顔を合わせてごはんを食べる。物理的にひとつのテーブルをかこむ。大人たちはそれを「若者が疫病禍を真剣に考えていない」と言うだろうか。それとも、感染リスクをカードのようにやりとりして親密さをはかるわたしたちのやりかたを「新しい様式」と呼ぶだろうか。
 大人たちはすでに親密な関係をいっぱい持っているから、誰かと親しくなりたいというわたしたちの気持ちを軽く見ているんじゃないかと思う。わたしが同級生と会うことを叱られたら、こう言いたいと思う。それなら感染リスクと親密さの獲得の望ましいバランスのための指針をください。月に何人までなら会ってもいいですか? それともゼロにするべきですか? 親密なコミュニケーションのすべてをインターネットでまかなえと言いますか?