傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

敗北を売る

 この二、三年、Youtubeで将棋の解説をしている。わりとまじめな解説なんだけど、ノリは軽くて、最終的には「でも僕、負けた人間なんで」「プロになれなかった人間の予測だ、あてにすんな」みたいな感じで笑ってもらう。いい小遣い稼ぎになっている。インターネットに顔を出してべらべらしゃべるのは旧世代の気にくわないらしく、親が家族のグループLINEで文句を言う。でも僕はもうとうに自分を食わせているし、二十代も後半だ。好きにやる。好きにしかやったこと、ないけど、小さいころからしてたことは、あまりに好きすぎて、もはや好きじゃなかった。僕の人生はとうにピークを過ぎた。だからせいぜい賑やかにしたい。おもしろおかしく笑って過ごしたい。僕の余生はものすごく長いのだろうから。

 井の中の蛙という言葉があるけれど、自分がどのくらいの井戸の、あるいは海の中にいるかは、泳いでみないとわからない。僕は保育園に置いてあった「こどもしょうぎセット」からスタートして、まあまあ大きなところまで泳いだ。プロにはなっていない。その手前まで。プロ予備軍の中には残れた。でもその中ではたいしたことなかった。それが僕の人生のピークだった。ぎりぎりまで粘ることなく見切りをつけてしばらくぶらぶらして、それから友だちが運送会社を作るというから一緒にやることにした。この進路も一般的にはリスキーなのかもしれないけど、将棋よりはぜんぜんまったく実にまともで安定している。働いて稼いで、貯金とかしちゃってさ。老後みたい。

 そんなわけで少しばかり精神が退屈して顔出し配信をはじめた。視聴者は圧倒的に同世代前後の男。僕はしゃべりがすごくうまいわけじゃないし、外見が良いわけでもないし、ネット上では自虐キャラなんだけど、そういうのって同性に需要があるんだ。ニッチな領域で新鮮なコンテンツを提供してくれて、そのくせちょっと舐めてかかれるような、決して脅威にならない、そういうキャラ。

 そんなだから女子の視聴者は少ない。でもゼロではない。だからコンタクトしてきた人間の性別に驚いたのではない。僕はTwitterのDMを開放していて、誰でも送れるようにしてるんだけど、そこにいきなりこうきた。

 何もできないんですけど親の遺産が五千万円あるんで結婚してください 負けることすらできなかった人間ですけど 人間未満ですけど 五千万円あるんで 二十四歳女

 僕はたいそう驚いて、そのDMを三回読んだ。あきらかに病的な妄想が書かれたメッセージを受け取ったことがあるんだけど、それとはちがう。支離滅裂ではない。現実にありうることが書かれている。「何もできない」「結婚してほしい」「五千万円やる」の間に矛盾はない。意味は通る。

 知らない人と結婚できません。そう書いて送った。一瞬で返信が来た。

 五千万円あります 親の遺産ですが相続税はもう払ってあります 全部あげます 半分ではなく全部です 引きこもりですけど生活費は別途あります 結婚してください

 ごめんなさい、あなたと結婚できません。そう書いて送った。また一瞬で返信が来た。

 じゃあ誰か男の人紹介してください 将棋仲間いるでしょ どうせ友だちいるでしょ みんないるんだよね友だち いないのは人間未満 誰でもいいんで結婚してくれれば五千万円あげるんで

 ブロックした。ため息を一度肺にためて細く細く口から出して、それから、相手は目の前にいないのだから自分が怯えていることを隠さなくてもいいと気づいた。将棋盤をはさんで向かい合っている相手ではない。

 僕はインターネットで「負けキャラ」を売って小遣いを稼いだ。その結果がこれか、と思った。売っているなら買わせろと、彼女はおそらくそう言っていたのだ。「負けることすらできなかった人間未満」だから、「戦って負けた人間」を買うと、そう言っていたのだ。彼女の言う「結婚」は扶養の話ではない。もちろん色恋の話でもない。自我とか存在とかを担保する機能を売れという、そういう話である。彼女は、何らかのストーリーを持つ人間と籍をともにすれば、自分がそこに寄って立つことができると信じている。おそらくはそういう理路だ。めちゃくちゃだけれど、妄想的ではない。本人なりの理屈はとおっている。いるだろう、血筋や親や配偶者がアイデンティティになってる人。構造としてはそれと同じだ。

 そのように推測してから、僕は暗澹とする。彼女は五千万円で誰かを買おうとしていた。彼女には五千万円分の大きな空洞があるのだ。そしてそれ以外にはほとんど何も残っていないのだ。