傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

ロマンスのセンサー

 友人が双子を産んだのでよく見にいく。子どもというのは見ていておもしろいものなので、他の友人も一緒に寄ってたかって子どもをかまっている。子のある者は子を他人と遊ばせることができ、子のない者は物珍しくて嬉しい。一挙両得である。

 双子はこのあいだ三歳になった。男の子たちである。二卵性だから顔は少しちがう。からだの大きさは、二歳になるくらいまでは弟が少し小さかったけれども、完全に追いついた。出生直後からいろんな人間に囲まれて育ったせいか、まるで人見知りをしない。赤ん坊の時分から、あきらかに保護者でない人間にごはんを差し出され、おむつを取り替えられ、抱き上げられ、「まあいいか」というような顔をしていた(そしてときどき思い出したように親の姿を探して泣いた)。社交的な子どもたちである。

 そんなだから彼らは三歳にしてよその大人たちを個別具体的に認知している。私のことは「さやかさん」と呼ぶ。どこに住んでいて何をしている人かもちゃんと言える。別の友人たちの写真を見せると、これまたきちんと「えりこちゃん」「はなえちゃん」「ななさん」と名を呼ぶ。

 また彼らにはすでに時制の概念が身についている。今日はこれから誰が来るかという未来について理解している。あと誰が来るの。尋ねると彼らは口々に「えりこちゃん」「はなえちゃん」と言う。ななさんは、と訊くと、「ななさん来ない」と言う。私の姑息なひっかけ問題など余裕でクリアである。

 それだけでけっこう感心していたのだけれども、「今日誰が来る」のやりとりを何度かやって気がついた。「はなえちゃん」と口にするときのようすが、双子の上の子だけ、どうもおかしいのである。妙にぶっきらぼうというか、小さい声になるというか、こもった口調になるというか。

 これは、もしや、あれか。照れか。私はそのように推測し、あらためて彼らに向き直って、はなえちゃん好き?と尋ねる。上の子は知らん顔をしている。下の子は屈託なく、好きー、と言う。そうかそうかと私が言うと、上の子は私から目を逸らしたまま、好き、と言った。ぼくも好き、とかではない。ただ、好き、と言うのである。

 私は勇んで彼らの母親のところへ行き、話して聞かせる。そうなんだよねえ、と母親は言う。片方だけ、はなえちゃんが好きなんだよ。実はさあ、あの子、突然深刻な顔して、こう言ったんだよ。あのね。お母さんとはなえちゃんしか好きじゃないの。

 なんというせりふか。私は感心した。年に何度かしか会わない誰かをくっきりと覚えていて、「お母さんとはなえちゃんしか好きじゃない」とは。そんなの恋じゃないか。三歳の語彙で世界一特別であることをあらわした、みごとなせりふではないか。父親はちょっとかわいそうだけど。あの父親、けっこう育児してるんだけど。

 双子の母は言う。保育園の子同士とかじゃなくて、えらい年上にきたよね。保育園の先生みたく毎日会うわけでもないのに。それなら、さやかさんでも、ななさんでも、ひろしくんでもいいでしょうに、あの子は、はなえちゃんでなくてはいけないの。不思議だよねえ、双子のもう片方はぜんぜん、はなえちゃんに興味ないんだよ。来れば喜ぶけど、それだけ。たまに来て遊んでくれる大人のひとりとしか思ってない。

 私は双子を見る。双子は遊ぶときも眠るときもよく折り重なっている。どちらかの手足にどちらかの手足が無造作に乗っかっていて、それで平気なのである。相手のからだも半ば自分のからだみたいな扱いをしている。この双子は生まれてから同じ環境で同じ人間にかこまれて同じ月日を過ごした。それでも彼らは一心同体ではないのだ。兄だけがはなえちゃんを好きなのだ。この世で母以外のただ一人として選別するほどに、好きなのだ。不思議なことである。

 双子の片方がべたりと私に抱きつく。適当に抱き上げてやり、これはどちらかな、と思う。視界に入るつむじには細い髪が渦を巻き、その向こうに不可解な三歳児の思考と感情が詰まっている。具象は身のまわりのものだけ、抽象はせいぜい一桁の数字、あいさつはできてもその意味は知らず、不愉快になればすぐに泣く。そのような三歳児的世界に彼らはいて、でも片方だけが恋をし、片方はぜんぜんしていない。私は子どもを軽く揺すり、それから床におろしてつむじのあたりをぐしゃりと撫でる。この中のどこに、ロマンティックな感情のセンサーが入っているのかしら。