傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

雪の女王たちにさらわれた、たくさんの友だちのこと

 天に感謝するがいいよ、あなたが宗教を持っていないとしても。

 彼女がそう言うので、私は彼女の顔を見る。あんまり天に感謝しそうな顔をしていない。すらりと長いからだにつるりと丸く清潔な顔を載せた、私の友人である。主に画像と映像の芸術を享受して生きている。職業は映像ディレクターで、夫と子と楽しく暮らし、週末ごとの劇場通いと夜ごとのホームシアターの成果をもって私の観るべき映画を推薦し、盛り上がりそうな映画の封切りに誘う。そうしたら私はいそいそと行って彼女と映画を観てそのあと一緒にごはんを食べて絶賛したり酷評したりする。

 今日はそのような心楽しい封切りの帰りで、けれどもいまの話題は映画ではないのだった。私が彼女とは別の古い友だちとライブに行くという話をして、そのバンドのライブはおよそ二十年ぶりだと言ったので、彼女はひどく感心して、そうか、と言うのだった。そうか、それはとてもすばらしいことだ、二十年は長い、二十年あったら人が成人するし、知り合いが何人も死ぬ、あと、だめになる、すごくたくさん 、友だちだった人が、目の前からいなくなる。だからよかったね。二十何年も友だちでいて二十年ぶりにライブに行けるなんて、とてもよかったね。

 そんなにも長いあいだ、私とその古い友だちが死ななかったことが?私が訊くと彼女は笑い、言う。サヤカさんとそのお友だちが死ななかったのはもちろん重要だけど、死ななきゃいいってもんじゃない。あのね、サヤカさん、あなた、友だちを、死ぬ以外のどんなルートで失いましたか、死とそれから惰性とおたがいの意思のほかの理由で。

 私はちょっと息をのむ。日常的な娯楽としての週末の映画館の帰りにそのような手厳しい質問が来るとは思っていなかった。私は言う。とても小さい声で言う。そうだね、私の古い友だちは、すいぶんとたくさん、持っていかれてしまったよ。人格をまるごと、どこかの化け物に持っていかれてしまった。そうして私と話をしてくれなくなってしまった。話が通じなくなってしまった。私はとても、かなしかった。

 その人たちは、仕事のために、最低限の人倫を捨ててしまった。ひどいことをして平気で笑っていた。仕事で疲れて何もしたくないし誰とも口を利きたくないと言った。へらへら仕事して平気で寝て休暇を取っている私のことをゴミクズだと言った。特定の仕事をしている人だけが人間であるというような物言いをした。私の仕事を卑しいものだと断じた。私は私の仕事を大切にしているから、そういう人たちとは友だちでいられなかった。

 それから、一部の人たちは、何かの教えのために、私を排除した。マルチ商法とか、自己啓発法とか、健康のための食事や運動の方法だとか、スピリチュアルとか、「結婚して子どもを産んだから、やっと一人前になったの、あなたにもわかるでしょう」とか、あと、支配的な恋人とか、そういう、ひとつひとつは好きにすればいいだけのことなのにどうしてか人格を預けてしまうようなものごとが、たくさんあって、たくさんの人が、持っていかれてしまったよ。私の昔の友だちは1ダースばかり、そうやって遠いところへ行ってしまった。みんながただ私に関心がなくなっただけなら私はどんなに気楽でいられたことだろう。みんながただ私に価値を感じられなくなっただけならどんなにかよかったことだろう。

 そうだね。彼女は言う。そうだね、彼らや彼女らがわたしたちをかまわなくなっただけならどんなにかよかっただろうね。けれども、そのような人々と「持って行かれた」人々は、明確に区別がつく。ねえ、サヤカさん、わたしたちは、たくさんの友だちをうしなった。一緒に高校の教室でお弁当を食べた、一緒に大学のサークル棟で無聊を託った、たくさんの古い友だちが、わたしたちの好きになった人格を奪われた。何か得体の知れないものが、わたしたちにやさしくしてくれたあのかわいい少年少女をさらって、遠くへ去っていってしまった。

 私たちは沈黙し、食後の甘いコーヒーをのむ。私たちは、かつての友だちをさらっていった、あの化け物を、どう扱ったらいいんだろう。かつての友人たちにとって、あの化け物だけが大切になってしまったことを、どうやって理解したらいいんだろう。私たちのかつての友だちにとって、あれこれの安っぽいカルト的な思想信条は、アンデルセンの童話で子どもを魅了した雪の女王みたいに、美しかったんだろうか。彼らをさらうだけの価値のあるものだったんだろうか。もしもそうだとしたら、私たちはこれから、その雪の女王どもを、いったいどうしたらいいんだろう。