傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

夜と犬

 それさあ、と彼女が言う。犬好きが犬にやるやつだよ。それって、と訊く。僕の顎は彼女の頭蓋に接しているので発声の労力はとても小さい。あなたが今してるようなやつ、側頭部から撫でて頭のてっぺんにキスするやつ、犬がいたらわたしもそうするよ。だいたいあなたは昔からわたしを犬のように扱っているんだよ。そんなことはないと僕は言う。生まれてこのかた身の周りに犬のいたことはない。そういえば彼女はむかし、将来は犬を飼いたいと言っていた。まだ飼わないのと訊くと飼わないよと言う。生き物を飼うのはたいへんなことなんだよ、わたしは出張が多いし、それにもっと広いマンションに越さないと無理だよ。

 そうかいと僕は言う。可愛いねと言う。もう一度撫でる。彼女は手慣れたしぐさで僕の肩と胸のあいだにひたいをつける。完全にリラックスしている。たまにしか会わないのに好きなだけ撫でさせて帰るのがこの人の良いところだと僕は思う。僕の手をはねのけることがない。過去はいざしらず、すでに長いこと僕に何かを要求しないし、これからもきっと、しない。可愛い。可愛さには安心感が含まれる。それからえげつなさが含まれる。撫でられ慣れている女。くそビッチ、と僕は思う。よくもまあこういう種類の女とつきあってたよな、十年前の俺はちょっと頭がおかしかったんだ。

 わたしはもう四十にもなるのですよと彼女は言う。そもそもあなたと知り合ったのだって十三年前で、可愛い可愛いというような年齢ではなかった。そうかいと僕は言う。そんなのが僕に何の関係があるのかなと思う。僕にとってあなたの時間ははじめから停止していて、いくつになろうがどうでもいいことだ、と言う。彼女は僕の腕からすぽんと頭を抜き、グラスをかたむけ、やれやれ、と言う。わたしはそれなりに努力をし、成熟し、ささやかながら社会的成果も上げてきたのですよ。あなた、それについて認識していらっしゃるのですか。少しは褒めてくだすっても良いのではありませんか。

 そのような事象があることは認識している、と僕は言う。彼女はさっきとはちがう角度で僕の腕に顔をつけ、軽く噛む。かたい、とつぶやく。すごく不満そうだ。すまない、と僕はかえす。老いにあらがうためにトレーニングをしているんだ。きみの言うとおり、時は正しく流れ、僕らは年をとっているのです。

 あなたみたいにわたしの噛み癖を許容する男っていないな、と彼女は言う。むしろしてほしがるじゃない、あなた、それって、やっぱりわたしを犬みたいに思っているからだよ。こんなのってしつけのなってない犬のすることだよ。僕は返事をしない。もう一度噛まれるのを待つ。僕はそうされるのが好きだ。僕は犬と親しくなったことがない。僕にとってそれは愛情不足の子どもの仕草だ。僕は大学生のころ、毎年ひとりは小学生の家庭教師をしていた。アルバイトする時間はぜんぶ予備校に振り分けたほうがカネになるのにと仲間たちは首をかしげていたけれど、子どもというものを、僕は好きだった。小さくて距離感のつかめない、体温の高い存在。僕を雇った家のいくつかは子どもに適切な愛情を注いでいないように見受けられた。そういう家の子どもは慣れてくると不意に僕の手足に噛みつくのだった。僕は彼らを叱った。弱くしなさいと諭すと彼らはちゃんと言うことを聞いた。彼らの薄い前歯、彼らの無力な暴力、彼らのさみしく原始的な愛。

 彼女は最近つきあった男の話をする。僕も最近つきあった女の話をする。仕事と生活の話が終わったときに付け足りのようにするタイプの簡潔な報告事項だ。僕のちかごろの女たちはいずれも結婚している。彼女はあきれて、あなたは昔から子どもを欲しがっていたのに、と言う。そんなんじゃ間に合わなくなるよ。計算して人とつきあえるタイプじゃないんだ、と僕は言う。知っていると思うけど。彼女は肩をすくめる。きみだって結婚してる男と寝ることくらいあるだろ。僕が言うと彼女はふふんと笑う。わたしはしない。その男と結婚している女性を傷つけたくないから。わたしは女の人たちを大切にしたいの。女性たちの一部にとっていまだ結婚は生活の手段でありさえするんだよ。彼らは一対一という法的な契約を結んでいるのだもの、自分の娯楽のためにそれを侵害するわけにいかないよ。

 娯楽、と僕は思う。僕は娯楽で恋をしたことなんかない。あなたのまわりには相変わらずろくな女がいないねと彼女が言う。なんてこと言うんだ、と僕は言う。そんなことはない、みなすばらしい女性たちだ。彼女は笑い、髪を揺らす。僕はそれに手をのばす。