傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

死にまでいたる恋の完成

 結婚は死にまでいたる恋の完成である、などというせりふがありますが、あんなのは嘘です。なぜ嘘かといいますと、多くの家庭では、恋をしたといって結婚して、そのあとはすっかり、稼ぐなり世話をするなり、家庭での役割になじんで、恋もへったくれもなくなるからです。ええ、それでよろしいのです。なぜって、恋というのはほんとうはおそろしいものだからです。出会った当初のときめきから少々のあいだに恋を手仕舞いにして、あとはそれなりの情愛と役割におさまるのがよろしいのです。
 しかし、なかには家庭におさまっても不満な者があって、たとえばここに、小さいながらその業界では名の知れた新興企業の責任者がおります。この男は三十代半ば、妻も同世代、同じ会社の取締役です。
 結婚して数年たつと、男はどうにも気が晴れなくなりました。男とその妻は社内で同じ程度の責務を負い業績を上げています。妻は家事もします。しかし半分しかしません。残りを男がしないと勝手にホームヘルパーを呼び、その費用を家計に計上します。いつも対等な口を利きます。
 安らぎがないんだ、と男は言います。女はうなずきます。女は男の会社の社員で、妻より十も若く、とても愛らしく、職位は末端であり、男を尊敬のまなざしで見上げています。男は女を食事に誘い、ホテルへ行き、やがて女の部屋に通うようになりました。
 女は食事を作って待っていました。その部屋で男は、脱いだ上着を自分でかける必要もないのでした。女は男の話をよく聞きました。いつも肯定して、聞きました。男はそれがなによりうれしかったのです。
 女はとくに男の妻の話を好みました。妻に嫉妬しているのだと男は思いました。男はだから、大げさに話をしました。男は妻の料理がまずいと話しました。太ってだらしない身体になったと話しました。子ができないのは妻のせいだと話しました。
 女はやがてこう言いました。ねえ、タオルやなにかを交換することがあるでしょう。私、あなたのおうちで使ったものがほしいの。
 女はなにかをねだることがありませんでした。男が贈り物などすると、ほほえみながら、私、そういうのがほしくておつきあいしてるんじゃないんです、と言いました。そんなだから男はますます女がかわいくてなりませんでした。タオルの一枚や二枚、と思いました。男は女に脳髄の芯まで甘やかされて、ふだんの判断力をうしなっていたのです。
 男は女にタオルをやりました。シーツをやりました。枕カバーをやりました。女はとてもよろこびました。
 ある日、女は言いました。ねえ、奥さまは、花の形のネックレスを持っているでしょう、金で縁取った真珠の貝の、あれを頂戴。珍しいね、と男は言いました。もちろん買ってあげよう。
 ちがう、と女は言いました。奥さまの、彼女の、そのネックレスを、ほしいと言っているの。男はぎょっとして女を見ました。女は相変わらず可憐で従順そうでした。そのままの顔で女は言いました。あれは彼女が昔の恋人からもらったとても大切なものなの。だから間違わずに持ってくるのよ。
 男はその一瞬で大量の事実を思い出しました。女は愛しているとか好きだとか言ったためしがないことを。妻の話を聞くときのうるんだ瞳を。女は妻のお気に入りの社員で、よく連れだって昼食に行っていることを。
 男は恐ろしくなって、ほとんど後ずさりしながら女の部屋を出ました。女の声が追いかけてきました。アルハンブラの花を持ってくるのよ。
 男はしばらく耐えました。けれども男はどうしても女から与えられる「安らぎ」を思い起こすのでした。それは麻薬のようでした。苦労してかすめとったネックレスを持っていくと女はひどく喜び、ねえ、あなたが来てくれなくって私がどんなにさみしかったか、と言いました。あとはもうもとの木阿弥です。男は妻の持ち物を盗みつづけました。たとえば昔の手紙。好きだった男の子が写っている高校の卒業アルバム。
 もういやだ、と男は言いました。きりがないじゃないか。恋なんてきりのないものよと女は言いました。あなたがもう役に立たないならいいわ、あなたが彼女の悪口を言っている録音を彼女にあげて、おしまい。
 それを聞いた瞬間から何分かのことを、男は覚えていません。気づいたら血痕のついたグラスが転がり、女の姿は消えていました。夢のような記憶のなかで、額から血を流した女が笑っていました。診断書をもらってこようっと。泣き崩れて警察も呼んでもらおう、私が通報するよりそのほうがいい。あなたの作り上げてきた世界は、これでおしまい。私の好きな人と結婚したくせに少しも大事にしないのだから、何もかもをうしなうのが当たり前でしょう?