傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

鯨骨生物群集 母親

 ええ、はい、どうもその節は、主人もお会いできてよかったと申しておりました。あら、そんな、どうぞお気遣いなく、そうですか、ではそのように主人に伝えます。
 子どもたちですか。今は長女の子の面倒を見るのがね、楽しいやら大変やらで、ええ、孫育てっていうんですか、その真っ最中ですねえ。ふたりですし、パートから帰ったら長女が面倒見てますから、自分が四人育てたときに比べたらラクなはずなんですけど、いやですね年とるって、朝家族を送り出してパートに出て帰ってからも動きっぱなしのまま晩ごはん作るのが当たり前だったんですけど、もう腰にきちゃって。
 え?年子なのは孫です孫、ええ長女の子です、いえ同居してるのは長男です、ええ、長女の家は自転車の距離なんですよ、長女の旦那さまが、自分の実家は地方だから東京で住むところは実家の近くにしていいって、そう言ったんですって、最近の男の人は理解があるんですねえ(長女は夜泣きのひどい子で、私はあの子が夜中に泣くと夫が起きてしまって大変だからすぐに部屋を移って、それでもおさまらなければ外に出て歩き回りながらあやしていたのに、寒い日なんかほんとうにたいへんだったのに、孫が泣いても長女は平気で家にいるし、何なら長女の夫があやすこともあるらしい、まったくどういうことだろう、まあ長女の夫は収入も少ないからマメにしてるんだろう、私たち親が頭金を出してやらなければマンションのひとつも買えなかったのだから)、うちの長男もだいぶそんな感じですしね、ま、女きょうだいが多くて分け隔てなく育てたっていうせいもありますけど、あら、お嫁さんはまだですよ、彼女は連れてきましたけど。いえいえ、そういうのはタイミングですから、ねえ、でもまあ来てくださるなら家はほら、ご存じのとおりのボロ屋ですから、どうにかしませんと。
 あら、そんな、余裕なんかありませんって、真ん中は独身ですしねえ、なんだか仕事が大好きみたいで、そうそうあの子、アパレルっていうんですか、洋服の会社で、もう三十すぎてるのに社会人に見えない格好してて、私なんかびっくりしちゃうんですけど、うちの会社ではそれが普通だって、私が注意すると怒られちゃうんですよ(三女は二十代半ばから急に生意気になった、会社でもあんな態度だから結婚できないんじゃないか、せっかく可愛く産んだというのに、なんてもったいないことだろう)。もう親の言うことなんか聞きやしません。そうやって子どもたちが好きなことして独り立ちするのが親の幸せなんだと思っておりまして、ええ。
 ああ次女ですか、次女は大学からそのまま、ええ、関西で(二十三のときに顔を出して、「二度と関わる気はない」と宣言してほんとうにそれ以来完全無視を貫いている。誰に育ててもらったと思っているのだろう。就職先や賃貸の保証人も頼んでこない。インターネットで所属している弁護士事務所を探して電話して、保証人はどうなっているのか尋ねたら、本人は出ないで、事務員しか対応しなかった。「少なくとも親御さんのお名前を無断で使用されているということはございません」と切り口上で言われた。失礼な事務所だった)。ねえ、弁護士だなんて、数が増えてそんなたいそうなものじゃないみたいですけどね最近は。
 あら、そんな。いえいえ、あの子、ちょっと変わってて人づきあい得意じゃないんで、あんまり戻らないで、手紙くらいですよ(十年以上顔を見ていないけれど住所はいつでも調べられる、戸籍の附票というものを取り寄せれば現住所が書いてある、親だからそれができる、何度も引っ越しするので年に一度は附票を取り寄せて確認している、そして手紙を書いている、私は親なんだから娘の居場所を把握する権利がある。一度行ってみたら新築でもタワーでもない、長女の買った中古のと似たようなマンションだった、最近は弁護士なんか余っているというし、たいした仕事をしているわけでもないのだろう。でも玄関がオートロックで、入れなかった。手紙には、そういうことは書かない、家族の近況をやさしく話してあげている。子どもが可愛くない親はいないのだから)。
 そうですねえ四人とも個性的というか、キャラ立ってる?っていうんですか、ふふ。まあ母としてはみんな健康でそれぞれの道を歩いているのでそれだけで、ね、幸せです。いえいえそんな、たいした教育はしていないんですよ、当たり前のことを当たり前にしていただけです、そんな、アドバイスだなんて、とんでもない、ええ、ええ、そうですね、じゃあまた、お近くにお越しの際はぜひお知らせください、主人も喜ぶと思いますので。