傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

母の死に目に会えないだろう

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。だから僕はそれ以来母に会っていない。

 僕が母と呼ぶのは養母のことである。実母は僕を産んですぐに亡くなった。もちろん記憶にはない。
 血のつながりというものがどれほど強いのか僕にはわからない。僕は父とは血のつながりがあって母とはない、そいういう家庭で育ったわけだけれど、父母のどちらかだけを本物の親だと思ったことはない。
 父は僕と子ども同士のように遊ぶばかりの(今にして思えば)子育ての実務の役に立つことのない人だったし、父の威厳みたいなものもぜんぜんなかった。母は母でずいぶんと(当時にしては)進歩的な考え方の、なかなかのインテリで、高校の教員をしていて、当時のティピカルな母親像みたいなことをやってくれる人ではなかった。おかずはだいたいスーパーかデパ地下のやつで、僕はそれを親たちと一緒に食べて大きくなったのである。

 そんなだから、僕はあまり血のつながりを気にしたことはなかった。でも母は僕が十八のときに僕の母であることをやめた。父と離婚したのである。
 あんたに悪いなとは思ってるわ、と母は言った。でもごめんねとは言わない。悪いことをしたのではないから。好きな人ができたから離婚するの。あなたのお父さんはいい人だけど、もうあんまり好きじゃないの。好きじゃなくなって生活をともにするにはあまりにも家のことをしない人だしね。
 わかる、と僕は言った。悪いと思うこともないよ、と言った。だっておれはもう大学生になるんだからね。子育ての節目ってやつでしょ。ていうか、よく育てたよね、おれを。とくにメリットもないのに。
 メリットとかそういうんじゃないのよ。母はそう言った。ある日、目の前にちいちゃい子がいて、「ああこれはわたしが育てるものだ」と思ったら、それで十何年も面倒みちゃうのよ。かわいいかわいいと思うのよ。言っとくけど今でもかわいいからね。あたしよりでけえくせによう、おまえかわいいんだよ。今だっておむつかえてやってもいいよ。母性本能なんてばかみたいなこと言うんじゃないよ。あたし子どもなんか産んだことねえし。でもあたし、十六年間、あんたのお母さんだったよ。今日からお母さんじゃないよ。あんたのお父さんと離婚するから。
 うん、と僕は言った。
 おれには二歳から十八歳のあいだだけ、母親がいたんだ、と思った。

 話はさらにややこしくなるのだけれど、その後父は再婚した。死別からの離婚からの再婚ていうか再々婚になるのかな、まあなんでもいいんだけど、僕が二十歳過ぎてからの結婚だったので、「おめでとうございます」という感じだった。それにしても父、もてるよな。けちじゃないけど金持ちでもなんでもなくて、貯金なんかほとんどないのにさ。
 父の三番目の妻が「相続の都合があるので養子になってほしい」と言うので、謹んでお受けした。だから僕には現在母親というものがいるのだけれど、でもどう考えてもこの人は「母」ではない。便宜上継母と呼ぶことにしている。僕が母と思っている人のことを他人に話すときには「養母」と呼んでいる。それが僕の落としどころである。

 疫病がやってきて、血のつながりのない人は入院先に面会に行けなくなった。
 養母は定年後、わりと早めに認知症になった。父と別れたときにつきあっていた男と結婚していて、その男が僕に連絡をくれた。まだそれほど年がいっているわけでもないのに残念だけれど、からだもだいぶ弱ってしまって、介護が必要だから、施設に入ることになったんだと。
 それでときどき会いに行っていたのだけれど、疫病が来てからは行っていない。僕はそれまで養母の「息子」として年に何度か養母のいる施設に通って面会していたけれど、息子というのは「嘘」だからである。
 母は認知症のほか昨年がんの手術をして、それほど長く生きると思われない。

 僕は母の死に目に会えないだろう。疫病下で入院患者に面会できるのは「お身内」だけなのである。具体的にいえば親子きょうだい、婚姻関係、せいぜい孫くらいまで。感染拡大状況によっては孫はだめだし、親子だっていつでも会えるのではない。血のつながりのない人は要するに(誰にとってかよくわからないけど、少なくとも僕と養母以外の誰かにとって)赤の他人なので、会う権利なんかないのである。
 僕は母の産んだ息子ではなく、母は僕の父の妻でなく、だから僕は、母の死に目に会えないだろう。