べつに何も考えてなかった。考えてなくても、暗黙の了解、みたいなものはよくわかってた。子どものころから空気は読めるほうで、間違ったら長姉がちゃんと教えてくれて、だから中学でも高校でも、それなりに過ごした。それなりにというのはつまり、目立つ連中よりは格下だけど最下層じゃない、とか、いじめの対象にはならない、かつ、明確にいじめる側でもない、とか、そういうこと。
空気を読んで最下層に落ちないようにふるまう。考える前にそれが身についていたのは、次姉みたいにはなりたくないと、物心ついたころから思っていたからだろう。うつむいて長姉の後ろに隠れていて、ときどき口を利いたと思ったら叱咤され、台所にこもって、しょっちゅう父親の罵倒の対象になる、陰気なやつ。まあ罵倒は家族全員がされてたけど、レベルが段違いだった。だから僕は空気が読める。その場で偉いのは誰か、そいつらの「スイッチ」は何か、そして、誰が最下層にいるか。
最下層はだいたい見た目が悪い。次姉もそうだった。親父はブスだブスだ、おっぱいもねえし、とこぼしていた。僕は「見たくない」と思っていた。顔のパーツが歪んでてその上ひくひく動くし、月に一度くらい、見える皮膚ぜんぶに蕁麻疹で赤い水玉模様ができるし、冬場は手指の関節がぜんぶぱっくり割れてて、赤い肉が見えるんだ。あかぎれっていうの?とにかく、気持ち悪かった。変なことしか言わないし。本ばっか読んでて現実見てないって感じ。
僕だって大人になった今では、こういう感想がよろしくないことはわかっている。親父の罵倒は常軌を逸していたし、顔が汚いからその最大の標的になるというのは理不尽な話だ。でも僕は五つや、九つや、あるいは十三で、きれいな顔をしたほかのふたりの姉がいたんだ。気持ち悪いと思ってもしかたないと、男の子ってそういうもんじゃないかと、同じ環境にいたら大部分は僕みたいにふるまうんじゃないかと、そう思う。人には言わないけど。
東大に行けというのが親父の口癖で、行けるわけがないのは昔からわかってた。でも親父は僕が高校を出た今でも相変わらず同じせりふを言う。僕は個室を持っているから、そこにいるあいだは勉強していると思ってる。塾だの予備校だのに行ったって講師の話が理解できたことなんかない。べつに何も考えてなかったし、何もしたくなかった。皿のひとつも洗わないどころか下げもしなかった。暗黙の了解で。
僕が十五のとき、次姉が進学で家を出た。東大じゃなくてよかったけど、僕から見たらたいして変わらないところだった。親父の荒れ模様を予期していたら、意外と得意顔で、うちの教育方針がどうのこうのと演説を垂れていた。へえ、と僕は思った。最下層でも学歴で逆転するのか。それから思い返した。そうか、余所からみたら「あの家の子、あの大学に行った」でまとまる話なのだし、その話は外聞がいいし、出て行くから汚い顔は消えて、いい外聞しか残らない。準備に金もかかってないし。入学と一人暮らしの初期費用は機嫌のいい親父に三つ指ついて「お借りいたします」と言っているのを聞いた。
次姉は学費免除を受けて、自分は行ったこともない予備校で稼ぎながら自活に移行した。うちの子じゃないみたい、と母親はこぼした。そのせりふは何度か聞いたことがあった。それを僕に言ってどうすんだと、僕はいつも思っていた。始終親父の機嫌を取るだけのこの人に「目標を持ってがんばりなさい」なんて言われてもぜんぜん響かなかった。目標もってがんばったこととか、絶対ないだろ、この人。
十年前、次姉が一時間だけ家に来た。親父のいない時間だった。大学卒業後に一年つとめた予備校を辞めてシホウシュウシュウセイになります、とだけ言って「借りた金」をテーブルに置いた。長姉と下の姉によく似た誰かがそこにいた。それは次姉だった。痙攣と蕁麻疹とあかぎれと恐怖が消えた、同じ人物なのだった。
僕はなんだか反省した。浪人という身分で不安だったせいもある。僕がもごもごと謝ると、あなたが謝る必要はない、と次姉は言った。あなたは自分の環境に疑問を持たなかった。私が非難しなくたって、つけはそのうち回ってくる。本人の意図によらず、誰かを踏み台にして特別扱いされた人間は必ずスポイルされている。目標も欲望も意思も計画も意気地もなく、身につけた能力は人に守られるためのものだけ。今からでも自力でどうにかしないと、いつまでも、ずっと、そのままだよ。
呪いだ。次姉が後ろ手に閉じた、見慣れた扉を眺めて、僕は思った。ちがう、事実だ。