傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

「生んでくれてありがとう」

 生んでくれてありがとう。

 息子が言う。保育園の卒園式のことである。子どもたちがひとりひとり保護者にメッセージを伝える。なにぶん六歳だ。自分だけで考えたら、要領をえない、しどろもどろの、あるいは日常的な発話になる。でも式典はスケジュールが決まっているから子どもたちはひとことずつしか口にできない。順番に、滞りなく、全員が、みじかい決め台詞を言う。そういう場だから、文言はだいたい決まっている。「送り迎えしてくれてありがとう」というのがもっとも多い。その中でわたしの息子は「生んでくれてありがとう」と言った。

 わたしは反射的に口を手で押さえる。その手をスライドさせて目の下と鼻と口を覆う。表情の細かい伝達を隠し、かつすごく感動しているように見える姿勢をつくる。隣のママ友が言う。まあ、なんてこと言ってくれる子かしら、こっちまで泣いちゃう。ほどなく園児たちはそれぞれの親のところへ行く。わたしはめいっぱい嬉しそうな顔をつくって息子をほめる。

 いいせりふじゃーん。後日わたしがその話をすると友人はのんきに語尾を伸ばす。じゃーん、じゃねえよ、とわたしは思う。わたしの眉間の皺を見て友人は笑い、言う。だってさあ、私は、子ども産んでないからさあ、子が母に向けた感謝の言葉を否定しにくい立場なんだよ、まずは当たり障りのないことを言うよ、私にもそれくらいの社会性はあるよ。

 わたしはため息をつく。友人は猫背をさらに丸めて平たいグラスいっぱいに注がれたカクテルを舐める。それから目を眇めて皮肉げな声を出す。あなたの息子さん、いったいどこで覚えてきたのかね、そんな「いいせりふ」を。

 そう。わたしは「生んでくれてありがとう」と言われて嬉しくなかった。暗澹とした。

 わたしと息子はたいそう愛しあっている。卒園にあたり、息子はわたしに感謝していると思う。でも「生んでくれてありがとう」は、確実に息子のオリジナルではない。どこかから拾ってきたものだ。わたしはそのフレーズを好まない。

 息子は悪くない。何一つ悪くない。息子の愛は伝わったし、それ自体はとてもうれしい。だからわたしは卒園式で息子を絶賛したし、その後だって何のわだかまりも持っていない。わたしが暗然としたのは、「母親というのは『生んでくれてありがとう』と言えば喜ぶものである」という文脈、そしてわたしの息子もその文脈を飲み込んでいるという事態のためである。

 「うんでくれてありがとう」は、狭く解釈すれば、「出産してくれてありがとう」である。この場合、妊娠出産を担当した母親のみが対象だ。広く解釈しても遺伝子を提供した両親に対するせりふだろう。そんなもの特権化してどうするんだと思う。わたしはたしかに息子を出産したが、だから息子を愛しているのではない。息子と自分の血がつながっているから愛しているのではない。ただ親子として時を過ごし、そして愛しているのである。

 そりゃあ今の日本では遺伝的な両親のつくる家庭に生まれてくるのが「普通」なんだろう。しかしそれ以外の親子だってたくさんあって、親子以外の養育関係ももちろんある。子どもはしかたないが、大人になっても「普通」だけが存在するかのような物言いをするのは知的怠慢ないし差別である。

 血のつながりのある両親だけを、さらに言うならしばしば母親だけを称揚する言説は世にあふれている。自分が母親になってよくわかった。「(夫との間に妊娠して自分が出産した子を育てている)お母さん」を褒め称える言説がいかに多く流布しているかを。わたしはそんなのは嫌いだ。愛情深く虐待せずに育ててくれた人はみんなえらいに決まっているだろう。全員をほめろ。全員に感謝しろ。そう思う。

 わたしはそのように話す。友人は要所要所でうなずく。あなたは正当だねと言う。わたしたちは同じような本を読んで同じような倫理観を持っているので、まあ当たり前ではある(だから話したのだ)。

 友人がつぶやく。「生んでくれてありがとう」が流布するってことは、「この子を生んだのは自分だ」という誇りで自分をアイデンティファイしている人がたくさんいるってことじゃんねえ。それ以外のアイデンティティ素材がいっぱいあったら、「生んでくれて」にフォーカスしないもんねえ。「育ててくれてありがとう」で済むわけだからさ。でも「生んでくれてありがとう」が主流なんだよねえ。そう考えると、なんか、しんどいよねえ。