傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

シャッタを切る指

 夏の金曜の夜だからか、オフィスにはほとんど人がいなかった。集中力が切れて、雑念が浮いてきた。「なぜ私は仕事をしているのか」と思い、この仕事が好きだから、それからもちろん食いっぱぐれないため、あと、誰かに必要とされていたいから、とこたえを出す。
 雑念が「なぜ私は屋根のある部屋に住みまともなものを食べるべきだと思っているのか」「なぜ私は他人に必要とされたいと思っているのか」「なぜ私は生きているのか」と推移したところで、友だちからメールが届いた。暇?
 仕事中。限界。送信。再度着信。かつサンドが来てるから合流しない?おもしろいよ。私はおもむろに作りかけの資料を保存し、PCの電源を落とす。
 はじめましてかつサンドです、と彼女は言った。はじめましてマキノですと私は言った。彼がよもや本人にあだ名の話をしているとは思わなかった。かつサンドさんって呼ぶのはずかしいんでサンドさんでいいですか。私がそう提案すると彼女はずいぶんと笑って、さん要らないですと言った。癖のある髪を無造作に伸ばし、化粧気はなく、いたく気軽な格好をして、そのくせやけに色っぽいのだった。陽気であけっぴろげでちょっとだらしなくって何かのはずみにぽっと死んじゃいそうな人、と私は思う。
 彼女はチーズをむしゃむしゃと食べ、間髪を入れずドライフルーツに手を伸ばした。本気度が高すぎる、と私は思った。おつまみに対する適切な態度ではない。
 おなかすいてるんですかと訊くと彼女は首を横に振り、もうけっこう食べました、と言った。彼もうなずいた。でもまだ食べちゃうの。三日くらいろくなもの食べてなかったからなんか、こう、補充してるというか。彼女はそう言う。
 彼女はフリーランスになって二年目のフォトグラファで、写真集を一冊出したところなのだという。すごいですねと言うとすごくなくていいから敬語めんどくさいからもういいですかと訊く。いいよと私はこたえる。彼女はうれしそうに笑ってふんふんとワインの匂いをかいでいる。いい匂いすると訊くと花の匂いすると彼女は言う。花の匂いの白いワインが一等好きと言う。彼女と彼と私はいくらか話をする。
 私がこの人に好きって言った話、と彼女は言う。かつサンドみたいにしか人を好きにならないっていう話。とってもおもしろかった。あのね私たしかにそうなんだ、みんなのこととてもふしぎ、すごい大げさなかんじになるでしょ、私のことそういうふうに好きになってくれたらいいと思う、必要とされてる感がすごい、びっくりする。
 勝手だねえと言うと彼女ははずかしそうに口を動かして、だって、わかんないんだもん、と言う。その様子がかわいいのでかわいいねと言うとまじめにうなずく。かわいがられるの好きだから上手くなったよ、そういうのって場数だよと言う。
 男の人に好きってわざわざ言うのも、そのほうが彼らはより私のことを好きになるから。もうやんないけどね、この人に怒られたから。サンドはそのように説明する。「彼に彼女を欲せしめるために 彼女は彼を欲するふりをする」と私は言う。ふりじゃないんだけど、でもたしかに、そういうかんじ、と彼女は言い、それなに、と訊く。詩、と私はこたえる。ポエムと彼女は言う。それからなにが気に入ったのか、ぽえむ。ともう一度言って、にこにこ笑っている。かわいい。
 どうして好きになられるのが好きなの、と私は訊く。どうしてそんなに他人に必要とされたいの。誰かが私を必要じゃないと私はいないから、とサンドはこたえる。
 写真は、カメラのシャッタを切れば、撮れる、私じゃなくていい。でも私が切る、それに対して誰かがお金をくれる。そんなのおかしいんだよ、写真はすごいけど写真家なんかほんとは誰でもいい、私はただのシャッタ切り機だ、でも、私の写真をほしいと言ってほしい、そうじゃなくちゃ私はいない、どこにもいない。
 私は少し黙って、それから尋ねる。あなたは自分が誰かのなにかをいいとジャッジする側、欲する側になろうと思わないの。思わない、とサンドは即答する。私それぜんぜんわかんない、私は、からっぽで、私は、シャッタを切る指なの。私がほしいのはみんなのほしいという気持ちだけなの。私は消費されたい、消費されつづけないと、私は存在しない。
 マサコと彼は呼ぶ。はあいとサンドはこたえる。サンドはほんとうはマサコというのだった。マサコさんはいつからシャッタを切る指になったんだろうと私は思う。その前のことを、彼女は覚えているだろうか、と思う。そのときマサコさんは何を見て、何を感じ、何を考えていたのだろう。過去のマサコさんの視界は今のサンドのそれとどのように異なるのだろう。私は彼と話す彼女を眺め、その内部の巨大で貪欲でみじめな空白について想像する。