傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

蛙にしてはいけません

別の部署から顔見知りの同僚がやってきて、はちにいぜろの件で、と言った。後ろの席の後輩が立ち上がって、ヤマザキさんですねとこたえ、出ていった。
 午後を少し回ってから給湯室に立ち寄って昼食を温めていると、後輩が通りかかって、マキノさんこれからですかあ、私も食べます、と言う。食後にコーヒーを淹れ、私たちは少しのあいだ黙ってそれをたのしんだ。たっぷりしたマグカップの中身が三分の二ばかり減ったころ、ヤマザキさん、と私は言った。ええヤマザキさんの件で打ち合わせしました、と後輩は言った。
 ヤマザキさんはこの会社の関係者で、たびたび苦情を申し立てる人だった。担当部署では対応しきれず、とうとう関連部署から何人かが集まって対策会議をひらいたらしかった。
 えらいねと私が言うと彼女は首をかしげて訊く。業務内容からして私がミーティングに出るの当たり前じゃないですか。そうじゃなくて、ヤマザキさんて呼ぶから、と私は言う。
 この会社ではたいていの人がたいていの相手を姓にさん付けで呼ぶ。けれどもヤマザキさんはいつしかあの人と呼ばれるようになった。それから、どうしても特定の人として示されなければならないときにも彼が関与している案件の管理番号で示されるようになった。下三桁だけを取ってその数字を言う。そんなことはほかにはなかった。
 私はその気持ちが少しわかった。あまりに理不尽な、あまりに粘ついた主張を繰りかえす人は、できれば機械的に扱ってしまいたい。それにそのような人物に相対するときには、機械的な扱いが功を奏する場合もある。
 でもそれはそれで納得できないような気もする、と私は言った。だから私がずっとヤマザキさんのことヤマザキさんて呼んでるのがわかったんですかと後輩は訊く。というより、と私はこたえる。ヤマザキさん、というせりふを聞いて、気づいたの、みんなが、彼をそう呼んでいないことに。私は担当じゃないから、聞いているだけだったから。
 そうかあと後輩は言い、いやあ私だってはちにいぜろって呼びたいですよと言う。モンスター名とかつけてやりたいです。でもしません。それは私の倫理に反するから。人間はね、相手をモンスターとして扱いつづけたら、ほんとに人間じゃなくできるんです、そういう力があるんです、その力を簡単に使ってはいけないんです。
 マキノさんいじめって見たことありますか。いじめたこととか、いじめられたことは。彼女が唐突に訊くので私はびっくりして記憶をひっかきまわす。当事者には、たぶんなったことない、小学生のとき、女の子同士のグループのなかで変な雰囲気になって追い出されたことはあるけど、すぐに別の女の子たちと一緒になったし、あと、クラスで孤立している男の子がいたのは覚えているけど、いじめというほどのことがあったかは、覚えてない。
 小学生じゃ、まあそんなものですよね、と彼女は言う。でももうちょっと大きくなると、あるいは大人がおこなう場合、いじめは組織化します。あるいは小規模な閉じられた集団の中で先鋭化します。そのとき、多くのターゲットは、名前を失うんです。
 私は彼女を見る。彼女はほほえむ。人生の夏を迎えたばかりのように見える、晴れやかな女の子。近ごろ長かった髪を切って、まるいショートカットにした。長い手足、長い睫毛、さらさら動く薄いスカート。人が何かを失う話に似つかわしい様子ではない。
 心ない呼び名や代名詞で呼ばれる。私はそう言う。それは呪いです、マキノさん。彼女はそう言う。人はね、長いこと正しい名前で呼ばれず、正しい扱いを受けないでいると、変質するんです。自分を害そうとする者の思惑のとおりに。悪い魔女の呪いで王子さまが蛙にされてしまうように。
 でも、うちの会社の人たちがヤマザキさんを害そうとしているとは思えない。私がそう言うと、彼女は髪をさっと振って、そうですとも、とこたえる。ヤマザキさんの側が、私たちを自分と同じ人間として扱ってくれないんです。読むだけで消耗するメールがいっぱい来ます。だから私たちはたぶん、やり返さざるをえないと思っているんじゃないでしょうか。
 私はひどく納得して、きっとそうだねと言う。そうしないときっと疲れきってしまう。それなのにひとりだけそれをしないのは、つらいことではないの。尋ねると彼女はその目をいっそう光らせて、平気です、と言う。だってヤマザキさんが人間に戻ってくれないと私たちずっと困るじゃないですか。私はねマキノさん、悪い魔法使いの魔法を解く側のヒーローやヒロインでありたいんです、ばかみたい、ほんとばかみたいですよね、でもずっと昔にそう決めたの、それを破るわけにはいかないの。