傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

彼の優等生

はどうですかと彼が訊くので、私は心底から絶賛した。あんなに有能な人はそういません、彼女はうちの部署のエースです、準備は周到で進行は計画的、アウトプットにムラがない、もう完璧です。
彼ははずかしそうに、いやあ家ではぜんぜんそんなことないんですけどね、家事は手抜きですしね、子どもだってよくおばあちゃんに預けてますよ、と言う。フルタイムの仕事で優秀な成果をあげてなおかつ家のこともきっちりこなしている段階でものすごい、と私は思う。
私など子どもも育てていないし、休日に有意義なことをしているわけでもない。どうかすると家から出ない。掃除が面倒なあまり、部屋に物がない(なければ散らからないから)。料理は嫌いではないけれども、面倒になるとしない。大鍋にいっぱいのカレーやおでんをつくって三日三晩食べ続けたりもする。彼女は絶対にそんなことしないと思う。
私は初対面の男性が気を悪くしないことばを選んでその思いを伝える。妻は優等生ですからと彼は言う。妻の言うことはたいてい正しいんです。正解があれば九割がたそれを選ぶし、選ぶことに迷いがない。正解がない問題でも主張にはそれなりの筋が通っている。言うことだけじゃない、することも。そういうの息苦しくないですか。
職場なので、正しさは多ければ多いほどいいです、と私はこたえた。息苦しいとかそういうのは私、よくわからないです。私は、彼女みたいにいつも正しくはいられないんですが、でも、正しくない状態のほうが、息苦しいです。プライベートではともかく、仕事は正しくあるべきだし、彼女の正しさってそんなに四角四面なものじゃなくて、大人っぽい正しさだと思いますよ。
そう言ってから、しまったと思った。失敗した。彼は彼女とプライベートをともにしている人なのだ。彼は案の定、上げたままの口の端の角度をわずかに変化させ、僕は息苦しいですよと言う。私はあいまいに笑う。
彼は目を泳がせてから、職場で妻と仲の良い男性なんていますかねと訊く。私はうろたえて、みんなとうまくやってます、とこたえる。実際のところ彼女はそのようにふるまっている。私の動揺でそれが嘘だと思われると困る。
おかしなことを伺ってしまって、と彼は言う。どうも、すみません、なんだか、いつも心配でしてねえ。妻はべつだん僕を好きで結婚したわけじゃないですからねえ。私はますます困って、いい旦那さまだって伺ってます、と言った。
それは、あの人は、そういう男を選んで結婚したわけだから、と彼は言う。子どもがほしかったんです、あの人は、そして、自分も働きたかった、だから、ある程度の経済力があって、勤勉で、子育てを分担できて、実家の親も協力的な男がよかったんですよね。僕がそれです。
彼女が休日に夫と出かけたことを話したとき、いいですねえデート、と私は言った。彼女は少し困った顔で、デートというか、相手は夫ですから、と言った。職場の宴席の話の流れで、恋愛と結婚は別ですと断定したこともある。
私は開きなおって、奥さまが大好きでいらっしゃるんですねと言った。彼は不意に我にかえった顔になり、なぜですと言った。だって、奥さまは、よく旦那さまの話をしますよ、もしそこに熱烈な恋がなかったとしても、好意と愛着は絶対にあります、それなのにそんな心配するなんて、よほど奥さまが大好きなんだなあって、思いました。私はそう話し、彼がうろたえているのを見て仕返ししたような気分になった。
熱烈な恋には熱烈な恋がほしい、そういうのいいですね。私が追撃すると彼は急に額まで赤くして、いやいや、すみません、勘弁してください、と言った。私は笑った。すると彼も開きなおった顔になり、愉快そうに、実は妻は僕が妻をこういうふうに好きだって知らないんですよと言う。妻は僕が自分と同じ感覚で結婚したと思ってます、求めるライフスタイルを実現できる相手だから一緒になったんだと。
どうしてでしょう、熱烈に思われたら、わかるものでしょうに、と私は言う。思いこみですねと彼は言う。妻は、自分が美人ではなくって、物言いもかわいげがないから、誰かが自分に入れ込むことなんかないと思ってるんですよ。ばかでしょう。
ばかですねえと私は言った。言うことと思うことがこんなにもシンプルに一致したのは久しぶりだと思った。私たちはひとしきり、ばかですねえ、ばかですねえと言い交わして、それから笑った。