傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

いつも迷子

そろそろどこへ向かっているかわかってもいい頃だよ、と彼は言った。私はあたりを見わたした。
時は夕暮れで、場所は駅から少しだけ離れた道ばたで、歩いている人々はみんな確信をもってどこかへ行こうとしているように見えた。みんな自分がいる場所を知っていて、行く先もしっかりとわかっているように見えた。そうでないのは私だけのように思えた。よるべなく、うっすらとみじめで、少しなつかしい気持ちがした。よくあることだ。
もう二回も行ったのに、と彼は言う。ごめんなさいと私は言う。
少し歩くと、わかった、と私は言った。どうしてわかった、と彼は訊いた。私は議員の看板を指さした。
あまり適切な目印ではないと思う、と彼は言った。あの人は選挙で負けて田舎に帰って、今はブロッコリーを作っているかもしれない。またここに来たときには、この看板はないかもしれない。
ブロッコリー、と私は言った。ブロッコリー、と彼はこたえた。私は少しのあいだ、政治をやめてブロッコリーを栽培する五十代の男性について考えた。
つまり、と彼は言った。絵があんまり覚えられないんだね。それから方向感覚もほとんどない。だから当然、地図も読めない。
そのとおり、と私は言う。私は建物の中でも迷う。私が働いている建物にはいくつかエレベータがあって、私は自分の詰めている部屋にいるとき以外、自分の位置からいちばん近いエレベータを選ぶことができない。景色だけではなく、人の顔を覚えるのも苦手だ。道は字の書いてあるもの、それから大通りなど強い特徴があるところを手がかりにして繰り返し通ることで覚える。人は声と、全体のシルエット、物腰から受ける印象などで補助して覚える。
それじゃあ、少なくとも引っ越し屋さんにはなれないね、と彼は言う。
私がなれないものはたくさんある。引っ越し屋さん、宅配をする人、登山家、画家、デザイナー、建築家、お針子、あらゆる種類の運転手。それに咄嗟の判断を迫られることにもすごく弱いから、医師、看護師、介護士、救急救命士、消防士、スポーツ選手、棋士なんかも無理。
そういうことっていつ考えたの、と彼は訊く。二十年くらい前、と私はこたえる。
そのときはずいぶんたくさんの仕事に向いてないんだって思って悲しかった。でも今は食べるのに困らないくらいの仕事はできているし、道に迷ったらみんな親切に教えてくれるし、そもそもひとりでそんなにたくさんの職に就くわけにはいかないんだから、まあいいやって思う。
みんな道を教えてくれるんだ、と彼は訊く。そうだよと私はこたえる。みんな親切だよ、誰にも教えてもらえなかったことってないよ。


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