傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

たんぱく質と平和と成熟

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。当初は自宅以外でのほとんどすべての室内活動がしにくかったけれど、しばらくするとジムは開くようになった。そうするとヒマだから運動しようという気にもなる。わたしはリモートワークというのはとてもいいものだと思っているけれど、通勤がないと運動不足になることもまた事実であり、中年の運動不足は短期間で身体を変えてしまう。

 そんなわけでわたしは一年ほどジムに通った。最初は週に一度行けばよしとしていたが、週に二回が定着し、近ごろは三回のこともある。割高だが自宅から徒歩五分で二十四時間営業しているジムにしたのがよかったのだと思う。逃げ場がない。めんどくさいなーと思っても、往復の交通時間を入れて四十分で終わるのだし、シャワーは家で浴びればいいので、「風呂の前にジム行っとくか」と思う。
 ジムそのものはべつに楽しくはない。わたしが契約しているジムには素敵なスタジオプログラムとかはない。プールやジャグジーもない。社交の場でもない。そこにはただ筋トレとランのマシンがあり、近所の(ややマッチョ傾向の)人々が単独でやってきて、黙々とマシンを使い、粛々とそれを消毒して、帰る。そういう場所である。
 しかし、継続して通って少しずつ筋力がつくと、身体の快適さに気づく。最初の一ヶ月で肩こりが緩和される。半年もすると立ち仕事が楽に感じられる。服がゆるくなってなんとなくしゅっとする。睡眠が深くなる。ごはんもおいしい。
 そうしてわたしは健康に味をしめた。あとから気持ちよくなるとわかっていると人間はそれをやるのである。

 味をしめるものが健康というあたりがほんとうに中年、とわたしは言う。しかもスケールが小さい。
 いいじゃんと友人は言う。巨額の横領に味を占めるとかよりは。そうだけど、とわたしは言う。年とったからって誰もが職場で犯罪やハラスメントをやれるだけの権力を持つわけじゃないもん。やりたいわけじゃないけど、そもそもやれる立場にないの。そこそこ長く生きてきて味をしめるものが健康くらいしかない。
 それはそれでひとつの人生の成果だよ。友人はそのように言う。筋トレ部位のローテーションだの食事に占めるたんぱく質の量だのに関心を持てるのは、あなたが平和な生活をしているからで、それはあなたが成熟の過程で獲得した成果なんだ。経済的な話だけじゃくてさ、精神状態がたいへんなら「筋トレをやって肩こりがなおってよかったなあ」なんて思えないし、激務だったらおいしい鶏胸肉料理をあれこれ試すなんてできない。それができる状況を作ったのは立派なことなんだ。よかったね。
 そうかな、とわたしは言う。そうとも、と友人は言う。そして、年とったら落ち着くなんて嘘だよ、と言う。

 落ち着くのは年を取ったからじゃなくて、落ち着くように人生を構築してきたからだよ。健康なんてどうでもいいからいい仕事をしたいという方針のまま四十ちょっとでからだ壊した人、わたしのまわりにもすでにいる。
 あとはそうだねえ、とにかく痩せていなくてはいけないと信じて極端な食生活する人もいる。この年齢でそんなことしたら骨はすかすか肌はがさがさ、寿命が何年縮むやら。でもやるんだよね、痩せでないのは「負け」だと思っているんだってさ。
 仕事や容姿が何より大切でそれを追求しつづけるっていうのは、まあいいんだ、好きにしたらいい。それがいい仕事とか容姿であるかは、わたしが決めることじゃない。彼らが決めたらいい。でもわたし個人としては、あれこれのやりがいや幸福を育てながらジム行ってたんぱく質を気にするくらいの人を好きだよ。
 なぜかといえば「仕事に文字通り命をかけている」「痩せのためなら健康を害してもかまわない」みたいな精神を好きじゃないから。
 そういう人って、何かから逃れるために、なんかこう、世間で良いとされているものを選んで、それにしがみついて、自分自身から逃げているように見える。だからわたしはそういう人が好きじゃない。もちろん「仕事も容姿も家庭も趣味も完璧に」とかそういう話じゃない。それはもっとたちが悪い。完璧とか上等とか勝ちとか、そういうのがあると信じていて、それに注力することが自分の生命より大切だと思っている状態がわたしはいやなんだ。

 そうかしら、とわたしは思う。世間でよしとされているものをとことんまで追求する、それもなかなかたいへんなことだ。がんばっててえらいねと思う。わたしはそんなにがんばれないもんなあ。

泥団子をこねろ あるいは反「言語化ありがとうございます!」

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。異常と思われた状況も三年目、すでに日常である。この間、わたしの趣味用のSNSアカウントにいささかのフォロアーと肯定的なリプライがつくようになった。
 趣味のドラマと映画とアートについてぶつぶつ言うだけのアカウントだ。口調というか文体を芸にしているのではないし、ジョークを言うのでもない。わたし自身が有名人というわけではないし、なにか珍しい属性を持っているのでもない(そのアカウントでは「三十そこそこの女なんだろうな」と思われる程度の情報しか出していない)。
 そういうものに少々の人気が出るのは意外だった。もしかしてお小遣いになるんじゃないかしらと思って知り合いに相談したけれど、「あとフォロアー数十倍ないとカネにはならない」と言われた。その程度の数字である。しかし、その程度を獲得するような内容でもないので驚いた。みんな疫病下でヒマなのではないかと思った。

 知人はそれを「あんたは言い切るからだ」と説明した。
 自分の感想とか意見であっても、条件も留保もなく言い切る人は少ない。そしてみんな断定が好きだ。すごく好きだ。それにあんたが扱っているコンテンツにはほどほどに人気のあるものがまじっていて、だから便利なんだと思う。あんたの感想を切り貼りしして「この作品に対する自分の感想」に加工するのに適した素材なんだよ。

 なるほど、とわたしは思った。感想や意見なんだからやたらとあいまいにするほうが変だと思っていたのだが、そのわたしのほうが変(少数派)であるようだった。
 しばらく気にせず好き勝手言っていたのだが、そのうち一部のリプライが煩わしくなった。わたしはリプライに返信しない。しかし見るのも不愉快になってしまった。
 誹謗中傷が、ではない。褒めているものの一部がである。そこにはたいていこのような文言が書かれている。「それが言いたかったんです!」「言語化ありがとうございます!」。

 最初は「頼まれて書いたのではないものを、まるで注文品を出したように言われて、それが不愉快なのかな?」と思った。でもわたしは彼ら(どういう人たちかは知らないけどわたしが言及する作品の傾向から推測するに女性が多い。わたしは「彼ら」を「they」として使う)のそのような傾向について、さほど気にしたことはなかった。
 しかしこのたびはほんとうに不愉快なのだ。何が不愉快なのか。

 わからないまま忘れてしばらく生活して、それから、泥団子がないからだ、と思った。

 わたしの好きなアーティストにボルタンスキーという人がいて、最近死んじゃったんだけど、この人は調子の悪い時期に泥団子を三千個つくった。すごく正確な球形の、ほとんど完璧に磨かれた泥団子だ。作品ではない。ジャスト・泥団子である。
 子どものころに泥団子をこねたことのある人はわかると思うんだけど、球形に近いつるつるの泥団子を作るのは手間のかかることだ。それをひとりきりでやる。何年もやる。無意味な球形。無目的な鏡面。等距離をあけて並んだ無価値な三千個。それは象徴ではない。道具でもない。泥団子である。
 わたしはこのエピソードがたいそう好きだ。わたしには何年も泥団子をこねる環境を作る力量も実行する根性もないのだが、ある種の精神状態において無意味な手作業を繰りかえすくせがあるからだ。そういうとき、わたしは閉じていて、わたしの中の何かと向かい合っている。わたしはそういう時間、すなわちひとりでぼうっとする時間がないとやっていられない。意味や価値のあることばかりやって過ごすなんて狂気の沙汰だと思う。
 人間はときどき、自分の中にダイブして何かを拾ってくる必要がある。そのときは閉じていなくてはいけない。それは他人と共有できるものではない。そのときの閉じ方としてわたしの中で解説しやすい例にあたるのが、ボルタンスキーの泥団子なのである。

 SNSをひらく。「言語化ありがとうございます!」というリプライが来る。泥団子をこねろ、とわたしは思う。そこらへんのてきとうな言語化マシン(と彼らが見なしたアカウント、すなわちわたし)の出力を便利に使っているヒマがあったら、泥団子をこねろ。あなたにはあなたに固有の泥団子があるはずだ。それは話題の作品についての手っ取り早い「言語化」なんかよりずっと大切なものであるはずだ。そう思う。
 わたしの泥団子は何かって。それはね、内緒です。

洗いたてのタオルのために

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。その後しばらくして増え、いまだ数を減らさないのが自殺である。逃げる道のない者が家に閉じこめられると死ぬ、とわたしは思う。そして寄付などする。
 なぜするかといえば、わたしが無力だったころ、世界はたまたま疫病下でなく、わたしにはたまたま逃げ出すだけの足腰の強さがあったからである。そんなのはただの運で、わたしが死なずに別の誰かが死んでいる理由にはならない。その理不尽のもたらす苦痛を少し減らすために、わたしはときどき寄付をする。

 わたしがはじめて洗いたてのタオルを使ったのは家を出て進学した十八のときのことである。それまでは風呂に入るときには洗面台のタオルを取って新しいものをかけ、古いほうを自分が使用するきまりだった。それがすでに水を取る能力を持たなければ、家の者の、つまりわたしより先に風呂に入る全員のうち誰かの使い古しを使用した。わたしが先に風呂に入るということは確実にない。なぜなら湯を抜いて風呂掃除をするのはわたしで、それは当然のことだからである。
 バスタブには入らなかった。何かが浮いていたりするし、それをほのめかされもするからだ。タオルも先によく調べてから使わないと、何がついているかわからない。シャワーを派手に出すと嫌みが(もっとひどければ乱入者が)やってくるので、カランの湯を細く出してそれを使った。もちろんドライヤーも使用しなかった。
 わたしの生家には女が三人いた。わたしの母親と姉とわたしである。しかし生理用品は目につかないところに置かれ、その場所はしばしば変更された。わたしは学校のトイレでトイレットペーパーを詰め、足りないぶんは見つからない程度に家のトイレットペーパーを使った。なぜなら生理用品を得たところで使用後に捨てる場所がないし、台所の生ゴミ入れに隠しても「臭い」と言われるので、水に流せるトイレットペーパーを使用したほうがまだ快適だからである。
 わたしには自分の下着と家族の下着を手洗いする役割もあった。これの気味が悪いことは言うまでもない。しかし洗濯機を回して洗濯物を干す役割の姉がしっかりと見張っているので、必ず素手で丁寧に下洗いしなければならない。そのほかにも「大事なものがまぎれこんでいるといけないから」ゴミ箱のゴミを手でつかみ出してゴミ袋にまとめるという役割もあり、このゴミ箱は家中のすべてが対象だった。父と弟が使用しているものについても。

 わたしは非常に生意気な子どもだったので、それが何を目的とするものか、小学校五年生のときには言語化していた。「生意気を言わせないため」である。中学校に上がったときの語彙では「身分を思い知らせるため」。この家には身分制度がある、と中学生のわたしは思った。
 しかしそれが特段に不当なものなのかはわからなかった。本を読むと不当だと思うのだが、中学校にも家よりははるかにましとはいえ身分制度めいたものはあって、わたしはその中でそれなりに立ち回っていたからである。高校に上がると「どうやら身分制度は不当であると言い張ることは可能だ」と思った。
 わたしが図書館に通ってやたらと本を読んだのは八割が現実逃避のためで、二割は死なずに生きるためだった。だから八割が小説で二割がノンフィクションや専門書だった。

 わたしは字を読む能力がたまたま高く、そうでなければ今のように生きていないだろう。家の中に身分を作ると「上」の者の精神が安寧するが(そういう人間は少なくない。わたしの父親のような、そしてそれに追随する他の家族のような)、「下」の人間はその後生きることに苦労するし、「その後」すら得られずに死ぬこともある。そういうのも本を読んで知った。知ったので死ななかった。「くそが」と思ったからである。「あいつらは全員うそつきの人でなしだ」と思ったからである。うそつきの人でなしのすることを真に受けてはいけない、と決めていた。
 しかし、素直ないい子はそれをしない。親の愛を求めたり、認めてもらいたがったりする。本によればそちらのほうが正常なのだそうである。「異常な環境に対する正常な反応」。
 わたしは正常じゃなくてかまわなかった。

 わたしがそう思うようになったのはたまたまである。わたしは自殺するか、緩慢な自殺を志す可能性が高い人間だった。でもそうはならなかった。たまたまそうはならなかった。わたしは家を出て愉快に生きて暢気な中年になった。
 だからわたしは寄付をする。わたしとわたしに似た誰かの、洗いたてのタオルのために。

マイ・イマジナリー・アキコ

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それから今まで二年半のあいだ、わたしは何度か章子と顔を合わせた。でもそういえば、と章子は言った。「アキコ」の話はしてなかったよね。疫病からこっち、アキコはどうしてる?

 章子はわたしの学生時代の終わりごろにできた友人である。アルバイト先の塾の控え室で話したのが最初だったと思う。もっとも、わたしが就職活動のためにアルバイトを辞める直前に話したから、仲良くなったのはひとつ年下の章子が就職して久しぶりに連絡が来たあとのことである。
 章子はいつも華やかなファッションに身を包み、同世代ではあまり見ない個性的なアクセサリーがよく似合っていて、社会人になりたてとは思われない雰囲気を持っていた。ワインと本が好きで、難解な学術書を読みこなし、三カ国語を話して、たいへんなグルメでもあった。しょっちゅう違う男の子とつきあっていて、十八から同じ彼氏とダラダラ過ごしているわたしは「ドラマティックだなあ」と思っていた。わたしと章子は別々の専門職に就いていて、章子の職業のほうがずっと格好良い響きだとわたしは思っていた。
 そんなわけでわたしは、ときどきお茶やお酒をともにするようになってからしばらくのあいだ、章子のことをすごく都会的でさばけた女だと思っていた。章子から「お金ない」と聞けば「高価な本と服とワインでなくなっちゃうのね、ふふふ」と思い、「彼氏と別れたの」と聞けば「フランス映画みたいな恋愛してるなあ」と思い、「太っちゃって憂鬱」と聞けば「またまたー、ぜんぜん変わってないじゃん」と思っていた。

 しかし、何度か会って会話の内容が深まると、わたしは自分の中の章子像が誤っていることに気づいた。
 章子は学生時代から質素な暮らしをしていたし、最初に勤めた会社の給与がその職業としては異例なほどに低く、東京での一人暮らしには余裕がなかった。それでくせがついたのか、転職して収入が倍増したあとも出費をおさえていた。というより「贅沢することに心理的なブレーキがある」とのことだった。新卒時代にお金がないと言っていたのは、ほんとうにただなかったのである。
 章子はいまだに出身大学の図書館に通っていて(卒業生が使用できるシステムがある)、ワインは安くて美味しいものを探すこと自体が趣味であり、服やアクセサリーは古着で手に入れているのだった。本人は恋愛に一途なのになぜか浮気者を次々と引き当て、自分の容姿をやたら細かく気にし、頑張っているという自負があるだけにちょっとした不正義に遭うたびストレスを溜めていた。
 こちらが真の章子だ、とわたしは思った。意外と気が小さいのだ。そして、まじめないいやつである。わたしが想像していたのとはぜんぜんちがう。

 わたしは章子にわたしの想像上のアキコの話をした。物憂げで大胆で浪費家で知性の無駄遣いに余念がなく、男の子を誘惑してはすぐ飽きちゃう罪な女、アキコ。
 イマジナリー・アキコ。章子はそう言ってげらげら笑った。誰そいつ全然わたしじゃないじゃん。そうなんだよとわたしはこたえた。あなたじゃないんだよ。
 でも悪くはない、と章子は言った。わたしも嫌いじゃないな、そういう女。
 そしてイマジナリー・アキコはわたしと章子の共通のコンテンツになった。章子はときどきわたしに尋ねた。そういえばアキコはどうしてる。
 そのたびにわたしは話した。アキコが二度目の転職の前に長いバカンスをとってモロッコポルトガルを旅したこと。にわかにスピリチュアルっぽいことを言い出して一瞬で飽きたこと。二十代後半に電撃結婚して半年で離婚して、今は珍しく慎重になって恋人との同棲を避けていること。天然石を使ったアクセサリー作りという新しい趣味を持ったこと。
 章子はそれを聞いて楽しそうに笑うのだった。章子の転職は一回、海外旅行はアジアに何度か、結婚はしないと公言している。

 わたしは疫病流行以降のアキコについて考える。そういえばわたしもアキコのことを忘れていたのである。アキコのような人物は疫病下ではいろいろとやりにくいのかもわからない。
 アキコに(脳内で)連絡とってみる、とわたしは章子に言う。最近何してたか聞いてみるよ。
 そうして、と章子は言う。まああの人のことだから適当にやってるでしょ。ボヘミアン調の服とか着始めてそう。
 わたしはそのせりふを心の中にメモする。半年先か一年先か、章子とまた会うときのために、アキコについての空想の種をまいておく。

わたしのお姉ちゃん

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのために海外在住の姉は気軽に帰国しなくなった。「しょっちゅう行き来するのは不経済だしねえ」と姉は言う。そのこと自体はさみしく思わない。わたしも語学留学や夫の仕事の都合で海外に住んでいた頃には同じように思っていた。そもそも、しょっちゅう親きょうだいに会わなきゃつらいとか日本じゃなきゃダメだとか感じるなら、外国に住もうと思わないのではないか。

 わたしが少しさみしく感じるのは顔を合わせる回数が少ないからではない。「姉はやっぱり遠い」と思うからである。

 姉は昔からわたしの近くにいなかった。子どものころには同じ部屋で寝ていて(子ども部屋がひとつしかなかったのだ)、物理的にはこの上なくそばにいたけれど、それでも姉を近いと思ったことはなかった。
 姉はよく本を読む子どもだった。二歳年下のわたしが物心ついたときにはすでに自発的に読んでいた。そうでなければテレビの歌番組や何かに没頭していた。
 わたしもテレビを観たし、本もそれなりに読んだけれど、姉のように入り込むことはなかった。最初にそのことを自覚したのは読書感想文を書くために姉が大好きだったファンタジー小説を読んだときだ。ナルニアに行くのは姉のような人間だ、とわたしは思った。わたしは本を読むことはできる。でも本の世界に行くことはできない。その世界をのぞき込むことはあっても、わたしのたましいが異界に招かれることはない。
 それが証拠に、とわたしは思った。姉はあんなに成績が良くて難しい言葉を使うのに、すごく簡単なことがわからないじゃないか。たとえば親は今どんな気分か。この親戚には何を言えば気に入られるか。学校の先生から自分が望むような扱いを受けるにはどういう態度を取ったらいいか。
 わたしには明瞭に見えているそれが、姉には見えないようなのだった。わたしって気が強くてかわいくないからね、と姉は言っていたが、そうではないとわたしは思っていた。姉は強いからはっきりとものを言うのではない。強いから大人に媚びを売らないのではない。
 姉の心はいつも半ば以上「ナルニア」みたいなところにあるから、大人たちのいる世界のことがわからない。だから姉は自分を守るために何ごとについても自分の意見を持ち、それを表明しなくてはならない。そうしなければ姉のたましいは容易に「ナルニア」に吸い込まれてしまう。糸の切れた凧みたいに。
 わたしには短いけれど切れにくい糸がついている。だからわたしはその糸を強くしようと、たぶんそのようなことを思った。

 わたしが最後に姉を「お姉ちゃん」と呼んだのは十歳のときである。姉はいかにも姉らしくわたしの子どもっぽい遊びにつきあってくれていたのだが、ある日わたしは気づいてしまったのだ。姉はそれを楽しんでいない。わたしのためにやっている。わたしは妹という手札、幼いという武器だけでこの人を動かしている。
 お姉ちゃん、とわたしが呼びかけると、なあにと姉はほほえんだ。義務を遂行する大人の顔をしていた。わたしはそれからどうしたか覚えていない。でもその次の日から姉を「お姉」と呼ぶようになった。何かを区切らなければならないと、子ども心に思ったのではないか。
 思春期にさしかかった姉は本棚を動かして部屋を半分に区切り、バリケードのようなその空間で何かを読んだり眺めたり鉛筆を動かしたりするようになった。ときどき、物理的にはそこにいるのに気配がほとんどなくなることがあって、そうするとわたしは「お姉がまた『いなくなっている』」と思ったものだった。わたしが彼女を「お姉ちゃん」と呼ばなくなった直後のことである。

 今、わたしたちは中年で、わたしの上の子は来年中学生になる。一年ぶりに帰国した姉は顔を合わせるなり○○くん入学おめでとうと言い、ありがとうとわたしはこたえた。上の子の入学祝いについて打ち合わせたあと、姉は言った。
 そうだ、こないだあんたのこと、「求められる系女子のグランドスラムじゃん」って言われたんだ、えっと、ベタ惚れの夫に連れられて駐在妻をやって子どもを育てて都内に家持ってるじゃん、それについて。わたし、あらためて感心しちゃった、あんたってたいしたやつよ、なかなかできることじゃないよ、なにしろグランドスラムだよ。
 わたしは苦笑した。姉は今でもこの世のことを、自分がなじんだコンテンツのひとつみたいに感じているんだろうと思った。やっぱり遠いなと思った。姉はわたしをうらやまないだろうけれど、わたし、お姉ちゃんは「ナルニア」に行けていいなって、今でも思ってるのにな。

わたしの妹

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。わたしはその前から仕事の拠点を海外に置いていて、頻繁な帰国ができなくなった。そのためにこの三年ほどで妹との物理的な距離ができた。以前は何かというと会っていたのだ。
 そうして少々の客観性を持って眺めると、わたしの妹はなかなかたいしたやつだなと思う。

 わたしたち姉妹に対して、親戚は昔から(何ならわたしと妹が中年にさしかかった今でも)、口を揃えて「お姉ちゃんは気が強いのね」「お姉ちゃんを頼りにしてるのね」と言う。お姉ちゃんとはこの場合わたしのことである。妹がわたしのスカートの端を掴んでおさまった写真があって、それがおそらくは親戚のイメージする「あの姉妹」なのだった。
 当時、「気が強い」というのは女の子向けの語彙だった。たとえば物怖じしない態度、たとえばはっきりした言葉遣い、たとえば極端に良い成績、そういう「女の子らしからぬ」要素に対する、しばしば揶揄を含んだ語彙。
 妹は思春期のころ、何度か「わたしはお姉みたいに言いたいことがいつもあるわけじゃないから」とつぶやいていた。しかし妹はおとなしくはないし、強固な行動指針を持っているように見えた。「妹と比べたら、あれこれ目移りしていろんなものに影響を受けているわたしって『弱い』よな」と思わされるほどだった。
 わたしたちが子どもだったころ、母はわたしに明瞭な色を着せることを好んだ。両親はおしゃれが好きで、大人のシックな好みをそのまま子どもに適用するタイプだった。そのためにわたしの子供服は、たとえば真夜中みたいな色したシンプルなワンピースに赤の差し色を効かせて同系色の靴を合わせる、というようなものだった。「あんた昔からはっきりした顔だったから」と母は言うのだった。
 妹の服はそうではなかった。妹はよく淡い色の、わたしより子どもらしい感じの服を着ていた。妹自身の好みを母が察知したのかもしれないし、二人目の子だから親の主張も減ったのかもわからない。少なくともわたしたちの顔はそっくりで、わたしが妹より「はっきりした」造作とはいえない。

 妹はわたしが二歳のときに生まれた。妹はわたしにとって最初の「他者」だった。よくある話だが、世界の中心に幸福に座っていた長子は、次子の誕生によって「上の子」として扱われる。そうなるとがまんもするし、配慮もする。そして妹ははじめから他者を持っていた。「下の子」だからである。
 妹は早いうちからわたしがあまり熱心にやらないことに興味を持った。そしてわたしも気がつけば、熱心にすることは妹があまりやらないことなのだった。わたしは本を読み、妹は友人集団と外を駆けまわった。運動は妹のほうが断然得意で、だから体も妹のほうがずっと丈夫だった。そうして妹はふだんあれこれ主張しないぶん、いざというときには頑として意思を通した。
 そうやって思い返すと、どう考えても妹のほうが「強い」。なんかこう、存在として強い。そう思う。それでもわたしは今に至るまでずっと「気が強いお姉ちゃん」で、妹は庇護欲をかきたてるタイプなのだった。
 姉妹なのにこんなに違う、とは思わない。姉妹だからこんなに違うのだと思う。わたしが思うに、妹のさまざまな好みの出発点はおそらく「姉と違うから」で、わたしの諸々の好みには「妹と違うから」という根っこが生えている。

 妹は現在、三人の子どもを育てる主婦である。何度訪問しても子ども三人を適切に養育しながらハウスキーピングして地域活動もこなすなんて信じられない。わたしと交代したらわたしが五人必要である。わたしの夫など、初回の訪問後に「僕は掃除というものに対する認識をあらためた」と言っていた(でもまだ二人して雑な掃除してる)。
 妹の夫は大手の商社に勤めており、妹にベタ惚れで、妹を海外に帯同し、帰国してすぐ都内に家を建てた。友人にその話をすると「求められる系女子のグランドスラムじゃん」と言われた。わたしはそれを聞いてめちゃくちゃ笑った。愛され駐在妻、複数の優秀な子ども、都内の「いいところ」の持ち家、なるほどグランドスラムである。
 わたしがその話をして妹を褒めると、妹は独特の含みのあるほほえみを浮かべ、こたえた。お姉、そんなのちっともうらやましくはないでしょ。
 そう、わたしはそういうのはうらやましくはない。自分がそれを欲しくはないから。でもすごいと思う。たいしたやつだと思う。持っているエネルギーの総量がわたしよりはるかにでかいよなあと思う。
 お姉、と妹は言う。また来てねと言う。また来るねとわたしはこたえる。

ナナフシとモブと圧倒的美人

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのために弟は帰省を自粛していて、今年はじめて、お盆の時期は避けて両親の住む家に戻ってきた。わたしは両親と同じ関東に住んでいるから何度かこっそり帰省していて、だから両親とはさほど久しぶりではないのだけれど、弟の顔をじかに見るのは三年ぶりのことである。
 とはいえとうに成人したきょうだいだ。そんなに気合いを入れて会ったりはしない。わたしは仕事の都合を優先し、弟が来た次の日の夜中に両親の家に着いた。
 母がわたしを出迎え、弟の名を口にして、あの子いまジョギングしてるわよと言った。そんなに意識の高い子だっただろうか。わたしの知るかぎり、高校の部活を引退して以来、とくに運動をしない怠惰な大学生活を送り、そのまま怠惰な社会人生活を送っているはずなのだが。

 弟はジョギングのあと風呂に直行した(そのような物音がした)。そうして出てくるなりクワアアア、と鴨みたいな声を出しながら冷蔵庫の中のハトムギ化粧水を出してばしゃばしゃつけた。化粧水を冷やすのは我が家の伝統である。
 弟はダイニングテーブルにかけてがばがば水を飲み、もう一度立ち上がってエアコンのリモコンを操作し、それからわたしの顔を見て、よ、と言った。よ、とわたしもこたえた。まだ暑いのにジョギングとは感心なことだねえ、蒸し煮みたくなってるじゃん。わたしがそう言うと弟はわたしを眺めまわし、ねーちゃんは疫病下でも変わんないのな、と言った。俺は太ったの。リモートワークで太ったの。だからいやいや運動してんの。

 両親もわたしも中背で、どちらかといえば痩せ型だが、弟はさらに長身細身で手足が長い。ナナフシみたいである。子どものころはカトンボみたいだった。わたしは言った。太ったなんてよかったじゃん。美容上あきらかにそっちのほうが一般受けするって。もっと太って鍛えたらモテるよ。
 弟は水を大量に飲んだあとビール缶を取り出し、わたしにもひとつくれた。それから言った。美しくなりたいとかモテたいとかの目的で走るんじゃないんだよ。なんていうかこれは、アイデンティティの問題なんですよ。

 アラサーまでこの形で俺は生きてきたわけよ。アラサーっていうか、あとちょっとでサーだよ。すでに「これが俺である」という感覚ががっちりある。ナナフシ体型が自分の身体だという感覚がある。だからできるだけキープしたい。ナナフシよりいいものがあったとしても。
 顔にしてもそう。この特徴のない、マンガのモブのような顔を、俺はけっこう気に入ってる。今からイケメン俳優みたいにしてやるって言われてもたぶんやめておく。この無害そうな、いかにもそこいらにいそうな顔を前提として他人とコミュニケーションを取るやりかたが身についていて、イケメンコミュニケーションをやれる気がしない。イケメンアイデンティティを構築しなおす気になれない。そんなの俺じゃないって思う。
 わかる? ねーちゃんはそういうのあんまわかんないか。

 弟は言い、わたしは考える。
 そう、わたしは実はそういうのはよくわからない。わたしも弟と同じく、きわめて特徴の少ない顔をしている。淡泊で特段に醜くも美しくもない。そしてわたしはその顔にあれこれ塗って変えるのが好きである。同じ顔でいると飽きるのだ。そういう意味では自分のあっけない顔は気に入っている。塗ればいろいろな方向に特徴を出せるから。
 三十何年も同じ顔見てたら、鏡を見て「また君か」って思わない? わたしは思う。だから何通りもの化粧顔を作る。容姿にアイデンティティを感じるかといわれると、あんまり感じない。明日になったら犬とか蛇とかの姿になっていたらさぞ楽しかろうと思う。

 あんまわかんないけど、あんたの感覚はヘルシーでいいと思うよ。わたしはそう言う。わたしは、顔を変えるのが好きだから、化粧趣味の仲間がいるんだけど、彼女たちの中には容姿の向上に過度な労力をかけているように見える人がいてさ、まあ趣味にどれだけ力を入れるかは人の自由だけども、本人がしんどそうで、病的に見えるケースもあるのよ。つまり「飛び抜けた絶対的な美人にならなければならない」という信念というか観念があって、そして「美人」の基準がただひとつに定まっているようなケースがさ。
 なるほど、と弟は言う。ねーちゃんほどずうずうしいのもあれだけど、気にしすぎるのもなあ。女の人は周囲から容姿をあれこれ言われるから、言われたことを気にするまじめな人がそうなるんだろうな。そろそろ男でもそういう人が増えるかもわからない。