傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

私たちが広場ですること

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのために休日の公園にやたらと人がいる。私の家の近所には大きな都立公園があり、よく飼い犬を連れて散歩に行く。今日も行った。そうすると疫病の前の二倍くらい人がいるのだった。遠出も屋内レジャーも禁じられたので、休みの日にやることがないのだ。
 ベンチは等間隔で埋まり、人々は本を読んだり音楽を聴いたりおしゃべりしたりしている。なかには自前の折りたたみ椅子を使っている人もいる。芝生や落ち葉のスペースの上にレジャーシートを広げ、家族や大人同士で寝そべっている人も少なくない。なるほど、「屋外で寝る」というのは考えうるかぎりもっとも害のない娯楽である。
 公園の敷地は広い。何もない空間が続く。ふだんはよくここに大道芸人がいるけれど、今日はいない。きっと人が集まるから禁じられたのだ。その代わりといってはなんだけれど、ものすごく上手なサックス吹きがいる。商売ではなくやっているようだけれど、お金をもらってもいいのではないかと思うくらい聞き応えのある演奏だ。

 私は公園を横切りながら人々の娯楽を数える。読書、音楽鑑賞、おしゃべり、楽器演奏、飲食、ジョギング、キャッチボール、スケッチ、写真撮影、コスプレ、ダンス、スマートフォンのゲーム、落ち葉のかたまりへのダイブ(主に子どもがやる)。地面があるだけでいろんなことができるものだ。疫病前はこの公園でここまで多くの娯楽を観察することはできなかった。
 でも私はそのような光景に見覚えがあった。まだ海外旅行が一般的な娯楽であったころ、東南アジアでよく見かけたのだ。
 たとえばホーチミンシティに行くと、街を細長い公園が横切っている。細長い公園には夕食後の時間帯まで人々がいる。それで何をしているかといえば、運動をしている。チームスポーツをしている一群もあるし、ジムにあるような器械を使っている人もいる。どうやらホーチミンシティの公園はジム代わりになっている。道路のふちに腰掛けて小さなダンベルを上げている人までいる。東屋の下には大音量で音楽をかけて社交ダンスを踊る年配の男女がいる。
 彼らはもちろん運動のほかの娯楽も楽しむ。道ばたに椅子を出してお茶を飲み、話をし、恋人の肩にもたれる。道ばたで食事をし、運動し、ボードゲームをし、スマートフォンで何かに接続する。酒を飲み、音楽をかけ、あるいは演奏し、踊る。子どもと遊び、犬を走らせる。人生の楽しみがすべて路上にあるようだった。喧噪、におい、排気ガス。イラ・フォルモーサ。

 今や東京がそのような場所になったのだ。冬の寒さのある国の、その冬のさなかにも、人々は広場に娯楽を展開している。それは疫病によるさまざまな社会活動の制限の結果だ。それでも私はそれらを豊かさと呼びたい。
 まだ海外旅行が一般的な娯楽であったころ、寒いさなかの公園で口をあけたウォッカの瓶を持ち歩いていたために警察官に連れて行かれた人を見た。ニューヨークでのことだ。ニューヨークの公園や路上での飲酒が禁じられていることを知らなかったのではあるまい。住んでいて、知っていて、それでも酒を飲まざるをえなかった、そういう人だったのだろう。リスのいる林も、素晴らしいジョギングコースも、敷地内のスケート場も、彼の気を引くことはできなかったのだろう。まったくもって他人事ではない。
 楽しいことがないとき、そして楽しいことを作り出せないとき、私たちは簡単に麻痺することを選んでしまう。何もなければ内側から不安が湧いて出るのが人間の仕様であって、それを外に逃がす方法がなければ薬物を使うか、さもなくば別の嗜癖に耽溺するかして、湧いて出る不安から目を逸らす。そういうことをやりかねない心性はもちろん私にもある。麻痺はいつだって私を待っている。辛抱強く私の体内に苦痛を送り続け、自分のところに駆け込んで来るのを待っている。
 だから私は自分にとっての人生の喜びのひとかけらを(たとえば飼い犬のリードを)握り、大きい公園に行く。そうして赤の他人が持って来た人生の喜びを見せてもらう。彼らが家にこもらず、その素敵なものを持って公園に出かけてきてくれて、ほんとうにありがたいことだと思う。病的な人間関係、病的な飲食、病的な活動はもちろん彼らの中にもあるだろう。でも私はそれらを仮定しない。美しい人生の印象だけを、彼らの姿からもらう。

レストランの開会式

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのためにレストランの営業は20時まで、アルコール類の提供は19時までが推奨されている。わたしの好きなレストランも軒並みそうしている。
 そのうちの一件に予約の電話をかけた。17時一斉スタートですべての客に同じコースを提供する形式にしているということだった。こうするしかないので、と店主は言った。いつものようにアラカルトもやりたいのですが、とてもできません。それでもよろしければ、どうぞいらしてください。17時に伺いますとわたしはこたえた。

 さて、17時に開店、同時にスタートということは、その五分前ほどに到着すればよいか。通常レストランに行くときにはそんなに厳密にやらないのだが、なにしろ一斉スタートである。全席埋まった状態で美しく17時を迎える、みたいな感じにしたい。わたしは同行の友人にそのように話し、わざわざ少し前に待ち合わせ、駅前のドラッグストアで時間をつぶして、きっちり五分前に店のドアをあけた。他の席はすでに埋まっていた。
 各席気合いじゅうぶんである。わたしたちはゲート前の競走馬のごとく開始のときを待った。運動会の徒競走で使う空砲みたいなやつがあるといいのにな、とわたしは思った。
 しかし現実はわたしの妄想を越えていた。シェフがやけに本格的な音響装置の前に立ってマイクをにぎったのだ。まさかの「開会宣言」である。わたしはおおいに愉快な気分になり、最初の一杯をシャンパンにすることにした。だって、なんだかおめでたいじゃないか。

 そんな真剣な姿勢で外食したくないという人もいっぱいいるだろう。店の都合に合わせるのがいやだという人もいるだろう。でもわたしたちは合わせる。不要不急とされるぜいたくな食事を親しい人とすることなしに、わたしの人生は成り立たない。わたしは祝祭的な皿の数々を要し、それを出す場であるレストランに急ぐ。
 疫病禍で変更された規範にはそれなりに適応している。幸いに職があり、住むところもある。精神の健康も保っているつもりだ。それでもわたしは近ごろ、こんなに愉快な気持ちで笑うことがなかった、と思う。
 なぜかといえばたぶん「何ヶ月ものあいだ、自分が予測できないことが起きなかった」からである。

 たとえば同じマッサージでも自分でするのと他人にしてもらうのでは後者のほうが気持ちいいのだと、ものの本で読んだことがある。著者が言うには、ほどよく予想外であることが快楽には必要で、それは自分ではできない(自分の動きは自分で決定するから)、だから他人のマッサージを必要とする、とのことだった。たしかに、同じ場所を同じ力で押すにしてもセルフマッサージより人にやってもらったほうが気持ちいい。
 マッサージだけでなく、生活そのものに予想外が必要なのだと思う。あまりぶっとんだ予想外ばかりでは疲れてしまうが、ほどよい無害な予想外があるから生活の気持ちよさが上がるのだと思う。
 疫病の流行は大いなる予想外だったけれど、その後の生活ではひたすら選択肢が減り行動範囲が狭まり、そのために予想外の喜びがうしなわれた。日常の中で出会うよきできごとのほとんどすべてが予測の範囲内になった。わたしはそのことに、たぶんうんざりしていたのだと思う。

 料理を食べに来たら開会宣言があるというような、ちょっとした予測範囲外のおもしろさ。わたしの生活からうしなわれていたのは、そういうものだったのだ。疫病が流行する前、わたしは知らず知らずそういうものの獲得のために休暇を使用していたのだ。
 感染拡大防止のため、自分にとって重要でない人とはできるかぎり顔を合わせず、知らない土地をふらふらすることもない。そうすると生活は定型化し、予測範囲外のことは起きなくなる。自分の世界を小さく小さくして、安全志向で、できるかぎりのことを自分でするようになる。そうした状勢を反映してか、自分の機嫌は自分で取れ、といった言説がはやったりもした。わたしはそれが上手いほうだと思うが、人にしろと言われてするものでもないように思う。権力がある側がない側に機嫌を取らせるのが問題なのであって、あとは他人に頼ることがあってもよいのではないか。
 セルフマッサージも上手になったが、セルフでは解決しない欲求もある、つまりはそういうことである。

 受け取ったものは返したくなる。だからわたしもこれから誰かにささやかな「予測範囲外」を提供したいと思う。美しくて奇妙ですこし滑稽で素敵な、レストランの開会式みたいなものを。

 

ラブホ行こうよ

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それでしばらくおとなしく暮らしていたところ、彼氏が「ラブホ行こうよ」と言うのだった。
 こいつだいじょうぶかとわたしは思った。一緒に暮らしてる人間とラブホ行ってどうすんだ。ベッドなら家にもある。それぞれが一人暮らしのころに使っていたベッドを持ち寄ったのでそこいらのホテルのよりでかい。ネトフリの見たいものリストはまだ長いし、switchも買った。最近は近所の銭湯に行くのがこの家のブームでもある。セックスだってしているじゃないか。奇抜な設備を別にすれば、ラブホにしかないものなんかないだろう。

 ある、と彼は言い張るのである。行きがけにコンビニに入ってテンション上がってあれこれ買って結局残しちゃったりとか、女の子がシャワーを浴びてるあいだそわそわしながら待ってたりとか、なんとなく寝ないでぼつぼつ話したりとか、窓がないもんだから朝ぜんぜん起きられなかったりとか、そんでつい寝過ごして女の子に置いていかれたりとか、そういうの。
 女の子って、とわたしは思った。同居して一年近くにもなる三十歳をつかまえて女の子って、あんた。

 それから彼のせりふを反芻してなんとなく理解した。彼が必要としているのはこの世界から消滅した軽薄な夜なのである。ちょっとした知り合いと、ときには知り合ってすぐの相手と話していて、なんとなく距離が縮まって、たいした思い入れもなく「うん、エロい」なんて思って、向こうもそういう感じで、色恋の色をエンジンに恋のほうは上澄みのひとかけだけ使って、それでもって手をつないで、ねえ今日は一緒にいようよっていう、あれだ。明日はわからないけど今日は一緒にいようっていう、あれ。
 不要不急といえばこれ以上の不要不急もない。疫病の前からそんなの必要なかったという人のほうが多いだろう。このたび流行している疫病以外にもリスクはあるのだし。
 でもわたしもほんのときどきはそういうことを必要としていたタイプの人間だ。経済にも学問にも芸術にも文化にも貢献しない、軽薄な楽しみ。そこからいわゆるまじめな(えっと、つまり、一対一の長期的な? そういうのまじめって言うんだよね?)関係に至ることもあるけれど、それはたまたまで、別にどこにも至らなくってぜんぜんいいですって感じの、不要不急。生産性とか進歩とか高潔さみたいなものをまとめてぶん投げちゃうのがなぜだか愉快な、あのなつかしい不要不急。

 この世界ではいらないとされたものが次々に消滅していく。そのような世界がはじまってすぐ、まだ誰も消滅が継続的な現象になると思っていなかったころ、彼はわたしにこう言った。今の部屋の更新が近い。引っ越す。だから一緒に住んでよ。
 彼はたぶん彼の好きな場がしだいに消えていくことを予期していたのだ。なんとなく人が集まる場所、約束なしに会話が発生する場所、特段の理由なしに呼ばれる場所、浮ついた音楽のある場所、深刻でない親密さが発生しうる場所。その筆頭が「女の子とラブホ行く」なのである。それらがしだいになくなることを予見したから誰かを家に置いておこうとしたのだろう。さみしがりだから。

 そんなわけでホテルから会社に直行した。わたしはこのところ土曜日の出勤が多いのだ。朝の百軒店の景色はなんだかガラス質で、うらぶれているのにしめっぽくはない。坂を下る。コーヒーをテイクアウトする。ガードレールにもたれる。からすの声を聞く。見るべきものなんかない視界をざっと走査する。わたしが若かったころこのあたりで目についた脱法ハーブの店の妙に可愛い看板はもちろんもうない。世界はよりクリーンになり、安全になり、疫病が来ても人々はちゃんと家に引きこもってマスクをかけ、夜中に知らない人と話しこんだりしない。
 妙にコーヒーらしさを保っている奇妙な黒い液体をのむ。百円でまともなコーヒーが飲めるはずがないから、わたしは味覚のどこかをハックされているか、あるいは非情な搾取に加わっているのだろう。
 でもだいじょうぶだ。わたしはホテルに男の子を置いて出てきて、そのまま捨ててもいいし、一生一緒にいてもいい。だから、だいじょうぶだ。

 ホテル代家計に入れておいて、と送信しかけて、やめる。たぶん彼も今わたしと同じような軽薄な自由の残滓を味わっているだろうから、しばらく邪魔しないでおこうと思う。家計って、あんまり軽薄じゃないもんな。

世界が小さくなったあと

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。僕の学生時代からのバックパッカー仲間の龍二が「もう子育てするしかない」と言い出したのはそのせいである。
 僕は仰天した。龍二は何かに拘束されることがものすごく嫌いなので、自由に旅に出ることを嫌がる女性とは付き合わない、子どもはいらないと、そのように公言していた。物体を所有するとそれに拘束される気がするという理由でやたらとものの少ない部屋に住み、ベッドさえ持たず、高性能の寝袋で寝ている。彼女が来たら彼女も寝袋で寝かせるのである。なんていうか、彼女もすげえと思う。僕だったらベッド買えって言う。買ってやるかもわからない。

 疫病の流行によって龍二は成人後はじめて自宅で年越しをした。社会人になってからはとくに長期休暇が貴重なので、年末年始は毎年海外にいたのだ。機長にハッピーニュイヤーと言われ続けてはや十年、死ぬまでそうやって過ごすものだと、彼自身も思っていたそうだ。
 僕も四日も休みがあれば航空券を探しはじめるクチで、国外に出られなくなる日が来るなんて考えたこともなかった。国内旅行も自粛の対象で、時期によっては県境を超えることさえやめろと言われる。そうすると休みに何をしていいかわからない。
 僕は料理に凝り、龍二トレイルランニングをはじめた。それなりに上達して、インターネットで新しい趣味の仲間を探して、そこに会話も生まれたりもしている。それでも僕らはものすごく暇である。旅が僕らにどれほどの刺激をもたらしていたのかを、強烈に思い知っている。

 あまりに暇で旅が恋しいので、東京にやってきた旅行者のふりをして休日を過ごすことにした。海外からやってきて歩き回っている、という設定で場所を選び、旅行者になりきって感想を述べるのだ。
 僕らは古本屋街を歩き、老舗のカレー屋で昼食をとり、やはりとても古くからある喫茶店(カフェではなく、喫茶店である)で買った本のプレゼンをした。旅行者ごっこの一環で、海外旅行者として選んだ古本を旅行仲間に自慢するという遊びだ。そしてその後は銭湯に行き、風呂上がりには謎のローカル飲料・コーヒー牛乳を飲むのである。

 龍二は英語でコーヒー牛乳を褒め称えたたえて笑ったあと、不意に素に戻って、退屈だ、と言った。世界を見られなくなって退屈だ。もうタイとかでいいから行きたい。東南アジアに行きすぎて飽きたなんて言った俺が悪かった。懺悔する。国境を越えたい。もう台湾とかでいいから行きたい。あのへんはもはや外国じゃないとか言って悪かった。反省している。これから何年も東京にいるなんて悪夢だ。東京は好きだけど、俺の世界が東京サイズに縮んだことが耐えられない。だからさ、もう子ども作ろうと思って。そうすれば子どもの目を通して世界を見るから、もう一度世界が広くなる。

 暇だから子育てするっていうのでも、べつにいいだろう。退屈に殺されそうなんだから、命がけでやるさ。彼女は前から子どもはほしいって言ってたし、この年になるとキャリアの先も見えるから、極限まで仕事をしたいとも思わない。いや、出世はするだろうよ、転職もしようと思えばできるだろう、言っちゃなんだけどできるからね俺。でもそれでもたいした変化はないだろう。暇なままだ。それなら多少給与が減ってもいいからゼロから人間ひとり育てたほうが暇じゃなくなる。

 あんなに何にも縛られたくないと言っていた人間が、変われば変わるものだ。でもこの焼けつくような退屈をうっちゃるには、たしかにいいアイデアなのかもしれない。
 おまえ子ども好きだろ、と龍二が言う。好きだよと僕は言う。しょっちゅううちの子と遊んでやってな、と龍二が言う。おまえを子どもの親戚みたいな扱いにしたいんだ、彼女の姉ちゃんが子ども好きの友達を子育てリソースに組み込んでうまいことやってるんだよ、その話きいてて、じゃあうちではおまえにやってもらおうと思って。
 僕は男の恋人と住んでいるから子どもはできない。血縁にこだわりはないけれど、今の日本では同性カップルが里親になるハードルがとても高い。だから僕の人生に子どもはきっとやってこない。そのことを不公平と思わないこともない。でもこうやって自分のことを理解してくれる友人が「子どもの親戚になってほしい」と言ってくれる。

 世界が小さくなったあと、僕らの退屈をしのぐ主な方法は他人になったのかもしれなかった。

わたしたちはお呪いをする

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それから半年が経過し、わたしたちはみな、おまじないをやって暮らすようになった。

 わたしは歩く。マスクをつけて歩く。わたしが住んでいる住宅地は休日でも人通りが少ない。駅前に出るまで誰ともすれ違わないこともある。それでもわたしはマスクをつけている。
 疫病の流行当初はマスクを持ち歩いて遠くから人が来たらすれ違う前にかけるようにしていた。でも今は二メートルどころか三メートル離れていても「マスクをしていない」というだけで駆け寄って行く手を塞ぐ不審者が出たということで、近隣の警察署から注意喚起が流れている。自転車の後ろに乗せた子どもがマスクを外していたという理由で自転車の前輪に傘を突っ込まれる事案も発生したとのことである。
 だからわたしは家を出る前にマスクをする。誰ともすれ違わなくても、マスクを外さない。

 スーパーマーケットで買い物をする。スーパーマーケットの店員さんはゴム手袋をしている。この店の店員さんは勤務の長い人が多くて、決まった時間に行くと決まった人がいるから、ときどき話をしたりもする。
 そんな店員さんのひとりはレジ作業でゴム手袋をするようになった当初、「意味がない」と言っていた。「だって、手袋をつけっぱなしでいろんなお客さんと対面するのでしょ、たとえばわたしが気づかないうちに例の病気になっていて、飛沫でお客さんに感染するとしたらね、つけっぱなしの手袋に飛沫がついて、それで感染するのでしょ、素手をこまめに洗ったほうがよほど安全でしょう」と。
 わたしだって素手をこまめに洗ってもらったほうが安心である。でもみんなゴム手袋をする。外しているとクレームが来るのだそうである。

 服の量販店で買い物をする。入り口には体温計がある。その表示によればわたしの体温は三十五度ないということである。自宅ではかると三十六度台だ。どうやら低く出るのである。そもそも無症状なら体温は変わらない。
 お客の中にはマスクなしでマウスシールドをしている人がいる。マスクの代わりになるものではないのだが、テレビ番組に出ている芸能人がしているから、あれでいいのだと思っている人がけっこういるのだと聞いた。そういうものなのだろうか。テレビは撮影のためにやむを得ずリスクを承知の上でマウスシールドを使っているのではないかとわたしは思うのだが。

 近所のレストランで食事をする。政府の要請でラストオーダー19時、閉店20時である。ラストオーダー間近、カウンターががら空きなのを見た上ですべりこんだので、メインとして頼みたかったラムチョップは持ち帰りにしてもらう。
 ここのシェフもわたしの顔見知りである。閉店が早くなって安全になりましたかとわたしは尋ねる。そんなわけないですよとシェフは笑う。距離をとってマスクの外の目だけで笑いを表現することに慣れたような笑顔だ。
 これだけすいていれば昼でも夜でも安全ですよ。夜だけウイルスが活性化するなんてことはないでしょう。この事態になってから通し営業にして夜はやく閉めているんですが、昼のほうがお客さんが多いです。日があるうちは襲われないみたいな、気持ちの問題ですかね。
 僕の両親なんて、親戚の集まりに出ましたからね。僕は断りました。大勢で飲食したら危ないから。でも親は怒るんですよ。他人じゃないのだからといって。他人じゃなくてもかかるのにね。でも僕は黙って叱られました。親がかわいそうで。
 わたしの母もです、とわたしは言う。布マスクをたくさん縫って送ってくるのです。お友達にあげなさいと言うのです。でももう医学的に有効なタイプのマスクが安く大量に手に入るじゃないですか。好みの見た目のマスクがほしかったらそれはそれで選択肢があるし。
 でも母はマスクを縫っていれば自分がこの世界で役に立っていると思えるんです。だからわたしはマスクを受け取るしかないんです。友達はもうみんな持っているからとは、言いますけど、「お母さんのしていることには意味がない」とは言えないんです。

 わたしたちはそのようにおまじないをする。おまじないをして清く正しく暮らしていれば疫病に襲われないのだと思っているみたいだ。疫病にかかるのは夜中に遊び歩いた人間であって、まじめに仕事をして遊びを控えていれば、そして正しくおまじないをしていれば、疫病で陽性になるはずがないと、まるでそう思っているみたいだ。

 でもそうではない。もちろん。 

わたしたちは隔てられている

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。大学入試は要で急ということになったようで、わたしの勤務先でも大学入学共通テストが実施された。
 わたしは研究助手として母校で働いている。この「助手」というのは教職ではなくて、助手としての仕事をもっぱらにする立場である。わたしの職場の助手は卒業生が多く、いろいろな意味で事務方・教員と学生の間に立つような仕事だ。
 わたしの最初の就職先が妊娠した女性社員に嫌がらせをするところで(当時はさほど珍しくなかった)、大きなおなかを抱えて伝手をたどり、出産後半年で今の仕事に就いた。そのとき乳児だった娘は高校三年生になった。共通テストに付き添ってやりたかったが、わたしも仕事だからしかたない。

 娘に激励LINEを送ってからスマートフォンの電源を切る。電子機器はすべて控え室に置くのがきまりで、試験中に着信が鳴ったら悪いので電源ごと切るのが習慣だ。試験監督者はグループわけされていて、わたしのグループは教員が二人、助手がふたりだった。
 わたしたちはもちろんマスクをかけている。そしてフェイスシールドを支給されている。わたしたちはそれをかぶる。息苦しい。主任監督者の教授など眼鏡の上にフェイスシールドを載せている。そうして見えている目だけで笑う。マスクにめがねにフェイスシールド、そりゃ重いよ。でもコンタクトレンズって怖くてできないんだよね。目に指を入れるのがね、どうしてもできないの。

 問題用紙をかかえて試験会場まで歩く。渡り廊下に立つ誘導役の職員はコートの着用を許されているが、試験監督者はスーツのまま歩くのである。今年はさほど寒くなくてよかった。それでもマスクの内側が派手に結露し、息苦しさが増す。
 かつてのセンター試験はもう少しおおらかだった。年々厳密になり、マニュアルにない行動はおよそとることができない。良いことだと思う。公正さのためには必要なことだと思う。しかしその一方で、受験生との隔たりもまた強く感じる。まさか物理的な隔たりのためのシールドをつけて歩くことになるとは思いもよらなかったけれど。

 でもそもそもわたしたちは疫病禍の前から少しずつ隔てられてきたのだ。この十年、大学の人員はどんどん減らされた。わたしの後輩の助手たちの新規の募集も減り、しかも非正規のみで、どんなに優秀でも任期つきでしか採用されない。そのような状況だから、昔のように何くれとなく学生の相談に乗るような時間はない。三年前にはとうとう助手の部屋の入り口に事務室にあるような受付窓が取り付けられ、学生はドアをあけて入ることさえ許されなくなった。
 わたしの職場の誰に悪意があるわけでもない。ただの予算の問題である。公的な場では金がないと業務上の寄り添いが減る。ひとりひとりの仕事がキチキチに詰まって、寄り添うというような「よぶんなこと」ができなくなる。組織における個々人の情緒的サポートを支えているのは予算的な余裕なのである。カネがなくなれば人と人は遠ざかってしまう。

 午前の試験を終えて控え室に戻る。控え室の席はアクリルボードで仕切られている。その仕切りの中で、わたしたちは黙々とお弁当を食べる。黙食、という見慣れないことばが、このところ推奨されるようになった。要するに黙って食えということである。
 食べ終わるとマスクをつけて少々の話をする。隣のテーブルからも話し声が聞こえる。来年もこんなふうですかねえ。一年じゃおさまらないでしょう。このあいだはそれなりにやれるまで流行から三年はかかりましたからね。
 わたしはひっそりと笑う。わたしの正面に座ったもうひとりの助手も笑う。隣のテーブルは史学科だ。だから「このあいだ」というのはきっとスペイン風邪のことなのだ。史学科の人々は百年前や二百年前を「このあいだ」と称し、見てきたようにものを言う。わたしは彼らのそのような悠長さを好きだが、本学でもっとも「不要不急」とされて組織再編の話まで出ているのはこの史学科である。

 午後の試験の途中で唐突に気が遠くなった。それまで経験したことのない強烈な眠気だった。右手の爪を左手に食い込ませて深呼吸し、かろうじて事なきを得たが、毎年経験している試験監督であんなに眠くなるなんてショックだった。
 短い休憩中にそのような話をすると、主任試験監督の教授が言った。それ酸欠。授業中の居眠りもだいたいは酸素の薄さが原因なの。寝るっていうか、停止しそうになるの。あのね僕らもう大量の仕切りが顔の前にあるからね、空気、薄いの、がんばっていっぱい息しないと、死ぬよ。

振り袖レンタル、誂え、スーツ

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。成人式がよぶんかどうかは微妙なところらしかったけど(わたしの住んでいるところでも直前までやるようなことを言っていた)、感染状況がえらいことになって結局やらないことになった。
 わたしは今年新成人だから、残念かと言われれば、そりゃあ残念だ。でも泣くほど残念ではない。正直そうなるんじゃないかなという気はしていたし、地元の友達に会いたければ自分で会えばいいし、着物はまた着ればいいやと思う。振り袖一式を予約していたレンタルのお店からも、日をあらためてかまわないという連絡があった。
 母にそのことを伝えると、母はみかんを剥きながら、そしたらまたの機会にして、そのときに写真を撮りましょ、と言った。おばあちゃんも呼んで撮りましょ。成人の日だったらおばあちゃん来られなかったんだから、かえっていいかもね。
 祖母は地方都市に住んでいて、そこでは東京との行き来で感染した人がいるために、実際的な健康問題より風評を怖がって祖母は東京に来ない。わたしたちにも来るなと言う。もう少し状況が変わったら行けるから、と言う。わたしは祖母が好きだから振り袖で祖母と写真が撮れるなら成人の日に何もなくてもまあいいかなと思った。

 うちではその程度だった。要するに親もわたしも成人の儀式みたいなものにそんなに興味がないのだ。父に至っては「着物なんざ二十一でも二十五でも三十でも着りゃあいいだろう。おれも着ようかな」などと言っていた。父自身は成人式に何もしなかったらしい。
 しかしすべての二十歳がそのような状況にあるかといえば、そんなことはない。大学の友人の中には一生に一度の思い出がふいにされたと嘆いている子もいる。

 大学外の友人たちはどうだろうと思って連絡をとってみた。まずは洋子ちゃん。洋子ちゃんはわたしの幼友達で、裕福なおうちの娘だ。洋子ちゃんは振り袖のレンタルなんかしない。「おばあさまが昔着ていたものを受け継ぎたかったけれど、背丈が違いすぎるので、誂えていただくことになった」と言っていた(LINEで)。なんかこう、すごい。
 洋子ちゃんは成人式がなくなったことについてはかなり悲しんでいた。でもそれは振り袖の問題ではないみたいだった。洋子ちゃんはそもそも振り袖なんか二十歳前からばんばん着ているのだ。
 洋子ちゃんとのLINEでおもしろかったのは、「誂えてもらうのもいいけれど、やはりおばあさまやお母さまの振り袖を受け継ぐのがいちばん」という価値観がある、という話だった。洋子ちゃんいわく、「ざっくり言うとそのほうがエライみたいなところある」。洋子ちゃんはその手の価値観をよく理解しているけれど、染まりきってもいないので、成人式の衣装にまでランクをつけるなんて、品がない、とも言っていた。

 次に連絡したのは佳奈ちゃん。佳奈ちゃんはわたしの中学校の同級生だ。区立中学だったからいろんな子がいたんだけれど、佳奈ちゃんは簡単に言うとお金がないおうちの子だった。佳奈ちゃんはぶっちぎりで成績がよく、わたしの母なんかは「塾にも行かずにすごいわねえ、ああいう子がいちばんえらいわ」と感心しきりだったけれど、佳奈ちゃんが努力する子になったのは佳奈ちゃんが追い詰められていたからで、そんなのを良いと言うべきじゃないとわたしは思う。
 佳奈ちゃんもまた、振り袖のレンタルなんかしない。そんなお金はないのだ。スーツ一着で成人式も就職活動も卒業式もやっつけるのだと言う。
 成人式がなくなったのは残念かと聞くと、いやそれほど、と佳奈ちゃんは言った。でもせっかく買ったスーツだから着たかったな。入学式なんか高校の制服のスカートとセーターで出たからね。
 佳奈ちゃんに洋子ちゃんの話をして、そういうのってどう思う、と聞くと、たいへんそう、と佳奈ちゃんは言った。お母さまやらおばあさまやらの振り袖が重宝されて女ばかりが着飾る文化っていうのは、つまり、女が客体でありつづけている文化ってことじゃん、それを引き継げって言われてるようなもんじゃん、わたしだったら逃げる。

 佳奈ちゃんのことを、成人式に着物も着せてもらえないなんてかわいそう、と言う人はいるだろう。もしかしたら洋子ちゃんのこともかわいそうと言う人はいるかもしれない(家に縛られている的な意味で)。でもわたしたちはもう大人だから、かわいそうではない。式が中止になっても、かわいそうではない。成人の日の夜、わたしは晴れがましい気持ちで、祖母と写真を撮る計画を立てた。