傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

わたしたちは隔てられている

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。大学入試は要で急ということになったようで、わたしの勤務先でも大学入学共通テストが実施された。
 わたしは研究助手として母校で働いている。この「助手」というのは教職ではなくて、助手としての仕事をもっぱらにする立場である。わたしの職場の助手は卒業生が多く、いろいろな意味で事務方・教員と学生の間に立つような仕事だ。
 わたしの最初の就職先が妊娠した女性社員に嫌がらせをするところで(当時はさほど珍しくなかった)、大きなおなかを抱えて伝手をたどり、出産後半年で今の仕事に就いた。そのとき乳児だった娘は高校三年生になった。共通テストに付き添ってやりたかったが、わたしも仕事だからしかたない。

 娘に激励LINEを送ってからスマートフォンの電源を切る。電子機器はすべて控え室に置くのがきまりで、試験中に着信が鳴ったら悪いので電源ごと切るのが習慣だ。試験監督者はグループわけされていて、わたしのグループは教員が二人、助手がふたりだった。
 わたしたちはもちろんマスクをかけている。そしてフェイスシールドを支給されている。わたしたちはそれをかぶる。息苦しい。主任監督者の教授など眼鏡の上にフェイスシールドを載せている。そうして見えている目だけで笑う。マスクにめがねにフェイスシールド、そりゃ重いよ。でもコンタクトレンズって怖くてできないんだよね。目に指を入れるのがね、どうしてもできないの。

 問題用紙をかかえて試験会場まで歩く。渡り廊下に立つ誘導役の職員はコートの着用を許されているが、試験監督者はスーツのまま歩くのである。今年はさほど寒くなくてよかった。それでもマスクの内側が派手に結露し、息苦しさが増す。
 かつてのセンター試験はもう少しおおらかだった。年々厳密になり、マニュアルにない行動はおよそとることができない。良いことだと思う。公正さのためには必要なことだと思う。しかしその一方で、受験生との隔たりもまた強く感じる。まさか物理的な隔たりのためのシールドをつけて歩くことになるとは思いもよらなかったけれど。

 でもそもそもわたしたちは疫病禍の前から少しずつ隔てられてきたのだ。この十年、大学の人員はどんどん減らされた。わたしの後輩の助手たちの新規の募集も減り、しかも非正規のみで、どんなに優秀でも任期つきでしか採用されない。そのような状況だから、昔のように何くれとなく学生の相談に乗るような時間はない。三年前にはとうとう助手の部屋の入り口に事務室にあるような受付窓が取り付けられ、学生はドアをあけて入ることさえ許されなくなった。
 わたしの職場の誰に悪意があるわけでもない。ただの予算の問題である。公的な場では金がないと業務上の寄り添いが減る。ひとりひとりの仕事がキチキチに詰まって、寄り添うというような「よぶんなこと」ができなくなる。組織における個々人の情緒的サポートを支えているのは予算的な余裕なのである。カネがなくなれば人と人は遠ざかってしまう。

 午前の試験を終えて控え室に戻る。控え室の席はアクリルボードで仕切られている。その仕切りの中で、わたしたちは黙々とお弁当を食べる。黙食、という見慣れないことばが、このところ推奨されるようになった。要するに黙って食えということである。
 食べ終わるとマスクをつけて少々の話をする。隣のテーブルからも話し声が聞こえる。来年もこんなふうですかねえ。一年じゃおさまらないでしょう。このあいだはそれなりにやれるまで流行から三年はかかりましたからね。
 わたしはひっそりと笑う。わたしの正面に座ったもうひとりの助手も笑う。隣のテーブルは史学科だ。だから「このあいだ」というのはきっとスペイン風邪のことなのだ。史学科の人々は百年前や二百年前を「このあいだ」と称し、見てきたようにものを言う。わたしは彼らのそのような悠長さを好きだが、本学でもっとも「不要不急」とされて組織再編の話まで出ているのはこの史学科である。

 午後の試験の途中で唐突に気が遠くなった。それまで経験したことのない強烈な眠気だった。右手の爪を左手に食い込ませて深呼吸し、かろうじて事なきを得たが、毎年経験している試験監督であんなに眠くなるなんてショックだった。
 短い休憩中にそのような話をすると、主任試験監督の教授が言った。それ酸欠。授業中の居眠りもだいたいは酸素の薄さが原因なの。寝るっていうか、停止しそうになるの。あのね僕らもう大量の仕切りが顔の前にあるからね、空気、薄いの、がんばっていっぱい息しないと、死ぬよ。